マンネリズムに評論の花は咲くか?~戦隊シリーズ雑感~
「侍戦隊シンケンジャー」のおかげで、日曜の朝の早起きが楽しくなった。例年、録画したものをお昼過ぎに見たり、撮りためしたものを一気に見ることが多かった。しかも去年の「ゴーオンジャー」はほとんど見ずにすませてしまったぐらいなのだ。いかに「シンケンジャー」を楽しんでいるか、おわかりいただけるだろう。
まず主役5人のキャラクター設計が素晴らしい。
殿様である丈留が、居丈高な態度の裏にある父への思慕や、仲間への信頼や気遣いの演出は、ぽっと出の新人俳優さんには、難しい演技であろう。事実演技がよいとは思えないが、脚本と演出がそれをカバーして有り余る。
自分がしてきたことに脇目もふらず邁進してきた流ノ介は、歌舞伎の家に生まれ、侍としての修業も怠らなかった男。だれよりもまっすぐな彼は、一昔前ならリーダーだったはずのキャラクターだ。だからこそ己の弱点までも素直に表に出せる。おどけた仕草も役者の出自の成せる技か。どれだけの想いが彼に隠されているのだろうか。
丈留や流ノ介とぶつかるべきキャラクターである千明は、二人とは別の視点からチームを眺められる位置におり、ともすれば見失いがちな「日常」や「普通」の視線で、チームに冷静さを持ち込める。だからこそ、単なる「正義」だけが行動原理ではない5人の姿が浮かび上がる。けれどチームを混乱させるのも千明の役目。没個性にならずに自我を出すことでドラマを上下させる男。
ことははチームの親和剤。控えめでドジだけど、緩急自在の距離感でチームに貢献する少女。孤立するメンバーがいれば、そっとその傍らに立ち、励ましたりたしなめたり。
茉子はチームのお母さんだ。チームのメンバーがみな肉親に縁が薄い。だれも母親の姿がちらつかない。丈留は、今後のドラマで母親の存在がキーになる可能性があるが、現段階では母性のすべてを彼女が担っている。そのキャラクターがすべてを物語っている。困っていたり落ち込んだりしている人を見ると放っておけない。彼女が口にする「普通のお嫁さん」は、日常の具現化した夢だ。そういう視聴者と地続きのところに位置している彼女は、普段ツンとしているだけに、素直に自分を表現できない女の子だ。
チームの父性を司るのは彦馬さんと黒子の皆さんだ。梶木折神が初登場した回では、侍であった先代が、後続を見守る位置として黒子に徹する話が出てくる。黒子がいて彦馬がいて、彼らがバックアップして若いシンケンジャーがいる。このあたたかなヒエラルキーに、「モヂカラ」というガジェットを含めた番組の設定の力を感じる。
今のところ大きな動きを見せていない外道衆。だからこそこれからその活動を本格化するかわからないところが不気味だ。そしてライバルキャラである腑破十蔵の存在。どうも人間と外道衆とのハーフらしいし、演ずる唐橋充の演技も相まって、大化けする可能瀬を秘めている。
あいかわらずロボットは箱お化けかもしれないが、問答無用で理由無く巨大化する外道衆が好きだ。そしてこのキャラクター達がもりあげるドラマを紡ぐ脚本家は小林靖子である。彼女の力量は「タイムレンジャー」や「仮面ライダー龍騎」、そして近作では「仮面ライダー電王」でわかろうってもんだ。設定上の甘さはあるとは思うのだが、なにせきちんと作り込まれたキャラクターが、小林の手の上でキャラクター主導で織りなす物語が、ひたすら僕らを楽しませる。時に気恥ずかしいほどの王道でありながら、微塵のてらいもなく見栄を切るシンケンジャー。ドラマが大きく振幅するのはこれからだ。これだけ固めたキャラクター配置であるために、例年の追加戦士の加入は大変だなあと、なかば心配していたのだが、今週ついに6人目が登場した!
ええと・・・寿司屋? えっ?金? あの、その・・・・だいじょうぶか?
まあ心配しても始まらないや。だいたい戦隊シリーズってのは、どんなものでもどん欲に吸収する事ができる、そういうシリーズだ。それはすでに故・石の森章太郎原作のシリーズ第1弾である「秘密戦隊ゴレンジャー」のときからそうだった。現在絶賛放送中のシンケンジャーで33作目だそうだ。私自身はこのシリーズが大好きだ。小学1年生のとき、父親とのテレビ争奪戦に負けて白黒テレビでゴレンジャーの第1回を見せられた恨みだと思う(5色のヒーローを白黒テレビで見る意義ってなんだろう?)。当然のことながら親との確執などで、視聴を中断していた時期はあるのだが、ほぼすべての作品をリアルタイムで見ている、情けないやら恥ずかしいやら、筋金入りの戦隊ファンである。
だからこそ「戦隊シリーズ」が、他のシリーズを圧倒して作品数が多いにもかかわらず、ウルトラシリーズやゴジラシリーズよりも一段階低めに見られ、近年では平成仮面ライダーシリーズとも比較されることなく、常に小さな友達の友人であり続けている。私自身はこの待遇に常に不満を持っている。
たとえば「いつもワンパターンで」とかおっしゃる方々がいる。通年で約50話を数十年にわたって作り続けているのだから、話がパターン化しない事のほうが難しい。そもそもターゲットを小さなお子様に絞っているので、ストーリーはわかりやすさを常としている。その制約の中で、毎年生み出されるドラマが、どれだけお子さん達の心に残っているだろう? 同じ事は時代劇にも言えるだろう。飽きられるほど再放送されている「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」が、戦隊よりも倍の時間を与えられながら、毎度同じ話を繰り返しているではないか?
振り返って戦隊シリーズを見るがいい。地球に生まれながら、幼き日に宇宙人に拉致されたことにより、生まれ故郷長く滞在できない体質となってしまった戦士達の悲しいドラマを見せた「超新星フラッシュマン」、現在と未来を守るために、愛し合いながらも別離を余儀なくされた「未来戦隊タイムレンジャー」、妖怪として戦っていた敵の正体が、人間の悪意そのものであった「忍者戦隊カクレンジャー」など。毎回わずか17分程度の時間の中で見せる連続ドラマは、決して夜の時間に放送されているドラマにひけをとらない密度であると、断言する。
ところが「戦隊シリーズ」が批評や評論の題材に選ばれることはなかなかないというのが事実である。なぜなんだろう? 私には今もって理解できない。
最近になってやっと宇野常寛著「ゼロ年代の想像力」を読むことができた。2000年を境とする2007年までの様々な作品を扱い、それまでの90年代とは異なる創作世界の思想についてつづった評論集である。その趣旨はアメリカの同時多発テロや無差別殺人を生み出したこの世紀おける思想が、「エヴァンゲリオン」などに代表される90年代の古い思想にスポイルされ続けていることを糾弾し、新たな「ゼロ年代」の思想を研究したものである。この中で著者は「ゼロ年代」のキーワードとして「決断主義」と「サヴァイブ感」をあげている。90年代の代表である「エヴァンゲリオン」の「碇シンジ」のように、決断の必要なときに何もせず、現実から逃避するのではなく、あらゆる状況下で生き残ることを至上の目的として、選択していくという考え方である。その例として「デスノート」や「無限のリヴァイアス」などの作品と一緒に「仮面ライダー龍騎」が取り上げられている。
著者の言わんとしていることはわかる。そして本書は実に刺激に満ちた評論集であることはたしかだ。だが残念な事ながら、本書では同時代に生み出された「戦隊シリーズ作品」にまったく触れていない。「仮面ライダー龍騎」は2002年~2003年に放映されている。この物語は、仮面ライダーが13人出てきて、己の欲望のためにバトルロワイヤルを繰り広げる物語であり、この戦いを止めよう決意した主人公は、最終回手前で落命する。先述のキーワードがぴったり当てはまるエピソードである。
だがこの前年、世界が崩壊する危機の中で、共に戦った未来人の時代を救うため、一人の男が現代を戦い抜く決断をし、未来人達は己の幸せを顧みず、友人である現代人のいる時代を守ろうとした物語があるのだ。「未来戦隊タイムレンジャー」という作品だ。この作品は「龍騎」と同様に小林靖子が脚本を担当している。キーワードは全く同じだ。そこに描かれる恋愛模様も、戦隊シリーズでは特異なほどの盛り上がりを見せた傑作である。
「龍騎」の物語を語る上で、時間の流れからいっても、「タイムレンジャー」を無視しては語れないように思うのだが、本書では全く触れていない。残念であると同時に、私が「ゼロ年代」の思想そのものに、いくぶん懐疑的であるのはこのためだ。
まず主役5人のキャラクター設計が素晴らしい。
殿様である丈留が、居丈高な態度の裏にある父への思慕や、仲間への信頼や気遣いの演出は、ぽっと出の新人俳優さんには、難しい演技であろう。事実演技がよいとは思えないが、脚本と演出がそれをカバーして有り余る。
自分がしてきたことに脇目もふらず邁進してきた流ノ介は、歌舞伎の家に生まれ、侍としての修業も怠らなかった男。だれよりもまっすぐな彼は、一昔前ならリーダーだったはずのキャラクターだ。だからこそ己の弱点までも素直に表に出せる。おどけた仕草も役者の出自の成せる技か。どれだけの想いが彼に隠されているのだろうか。
丈留や流ノ介とぶつかるべきキャラクターである千明は、二人とは別の視点からチームを眺められる位置におり、ともすれば見失いがちな「日常」や「普通」の視線で、チームに冷静さを持ち込める。だからこそ、単なる「正義」だけが行動原理ではない5人の姿が浮かび上がる。けれどチームを混乱させるのも千明の役目。没個性にならずに自我を出すことでドラマを上下させる男。
ことははチームの親和剤。控えめでドジだけど、緩急自在の距離感でチームに貢献する少女。孤立するメンバーがいれば、そっとその傍らに立ち、励ましたりたしなめたり。
茉子はチームのお母さんだ。チームのメンバーがみな肉親に縁が薄い。だれも母親の姿がちらつかない。丈留は、今後のドラマで母親の存在がキーになる可能性があるが、現段階では母性のすべてを彼女が担っている。そのキャラクターがすべてを物語っている。困っていたり落ち込んだりしている人を見ると放っておけない。彼女が口にする「普通のお嫁さん」は、日常の具現化した夢だ。そういう視聴者と地続きのところに位置している彼女は、普段ツンとしているだけに、素直に自分を表現できない女の子だ。
チームの父性を司るのは彦馬さんと黒子の皆さんだ。梶木折神が初登場した回では、侍であった先代が、後続を見守る位置として黒子に徹する話が出てくる。黒子がいて彦馬がいて、彼らがバックアップして若いシンケンジャーがいる。このあたたかなヒエラルキーに、「モヂカラ」というガジェットを含めた番組の設定の力を感じる。
今のところ大きな動きを見せていない外道衆。だからこそこれからその活動を本格化するかわからないところが不気味だ。そしてライバルキャラである腑破十蔵の存在。どうも人間と外道衆とのハーフらしいし、演ずる唐橋充の演技も相まって、大化けする可能瀬を秘めている。
あいかわらずロボットは箱お化けかもしれないが、問答無用で理由無く巨大化する外道衆が好きだ。そしてこのキャラクター達がもりあげるドラマを紡ぐ脚本家は小林靖子である。彼女の力量は「タイムレンジャー」や「仮面ライダー龍騎」、そして近作では「仮面ライダー電王」でわかろうってもんだ。設定上の甘さはあるとは思うのだが、なにせきちんと作り込まれたキャラクターが、小林の手の上でキャラクター主導で織りなす物語が、ひたすら僕らを楽しませる。時に気恥ずかしいほどの王道でありながら、微塵のてらいもなく見栄を切るシンケンジャー。ドラマが大きく振幅するのはこれからだ。これだけ固めたキャラクター配置であるために、例年の追加戦士の加入は大変だなあと、なかば心配していたのだが、今週ついに6人目が登場した!
ええと・・・寿司屋? えっ?金? あの、その・・・・だいじょうぶか?
まあ心配しても始まらないや。だいたい戦隊シリーズってのは、どんなものでもどん欲に吸収する事ができる、そういうシリーズだ。それはすでに故・石の森章太郎原作のシリーズ第1弾である「秘密戦隊ゴレンジャー」のときからそうだった。現在絶賛放送中のシンケンジャーで33作目だそうだ。私自身はこのシリーズが大好きだ。小学1年生のとき、父親とのテレビ争奪戦に負けて白黒テレビでゴレンジャーの第1回を見せられた恨みだと思う(5色のヒーローを白黒テレビで見る意義ってなんだろう?)。当然のことながら親との確執などで、視聴を中断していた時期はあるのだが、ほぼすべての作品をリアルタイムで見ている、情けないやら恥ずかしいやら、筋金入りの戦隊ファンである。
だからこそ「戦隊シリーズ」が、他のシリーズを圧倒して作品数が多いにもかかわらず、ウルトラシリーズやゴジラシリーズよりも一段階低めに見られ、近年では平成仮面ライダーシリーズとも比較されることなく、常に小さな友達の友人であり続けている。私自身はこの待遇に常に不満を持っている。
たとえば「いつもワンパターンで」とかおっしゃる方々がいる。通年で約50話を数十年にわたって作り続けているのだから、話がパターン化しない事のほうが難しい。そもそもターゲットを小さなお子様に絞っているので、ストーリーはわかりやすさを常としている。その制約の中で、毎年生み出されるドラマが、どれだけお子さん達の心に残っているだろう? 同じ事は時代劇にも言えるだろう。飽きられるほど再放送されている「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」が、戦隊よりも倍の時間を与えられながら、毎度同じ話を繰り返しているではないか?
振り返って戦隊シリーズを見るがいい。地球に生まれながら、幼き日に宇宙人に拉致されたことにより、生まれ故郷長く滞在できない体質となってしまった戦士達の悲しいドラマを見せた「超新星フラッシュマン」、現在と未来を守るために、愛し合いながらも別離を余儀なくされた「未来戦隊タイムレンジャー」、妖怪として戦っていた敵の正体が、人間の悪意そのものであった「忍者戦隊カクレンジャー」など。毎回わずか17分程度の時間の中で見せる連続ドラマは、決して夜の時間に放送されているドラマにひけをとらない密度であると、断言する。
ところが「戦隊シリーズ」が批評や評論の題材に選ばれることはなかなかないというのが事実である。なぜなんだろう? 私には今もって理解できない。
最近になってやっと宇野常寛著「ゼロ年代の想像力」を読むことができた。2000年を境とする2007年までの様々な作品を扱い、それまでの90年代とは異なる創作世界の思想についてつづった評論集である。その趣旨はアメリカの同時多発テロや無差別殺人を生み出したこの世紀おける思想が、「エヴァンゲリオン」などに代表される90年代の古い思想にスポイルされ続けていることを糾弾し、新たな「ゼロ年代」の思想を研究したものである。この中で著者は「ゼロ年代」のキーワードとして「決断主義」と「サヴァイブ感」をあげている。90年代の代表である「エヴァンゲリオン」の「碇シンジ」のように、決断の必要なときに何もせず、現実から逃避するのではなく、あらゆる状況下で生き残ることを至上の目的として、選択していくという考え方である。その例として「デスノート」や「無限のリヴァイアス」などの作品と一緒に「仮面ライダー龍騎」が取り上げられている。
著者の言わんとしていることはわかる。そして本書は実に刺激に満ちた評論集であることはたしかだ。だが残念な事ながら、本書では同時代に生み出された「戦隊シリーズ作品」にまったく触れていない。「仮面ライダー龍騎」は2002年~2003年に放映されている。この物語は、仮面ライダーが13人出てきて、己の欲望のためにバトルロワイヤルを繰り広げる物語であり、この戦いを止めよう決意した主人公は、最終回手前で落命する。先述のキーワードがぴったり当てはまるエピソードである。
だがこの前年、世界が崩壊する危機の中で、共に戦った未来人の時代を救うため、一人の男が現代を戦い抜く決断をし、未来人達は己の幸せを顧みず、友人である現代人のいる時代を守ろうとした物語があるのだ。「未来戦隊タイムレンジャー」という作品だ。この作品は「龍騎」と同様に小林靖子が脚本を担当している。キーワードは全く同じだ。そこに描かれる恋愛模様も、戦隊シリーズでは特異なほどの盛り上がりを見せた傑作である。
「龍騎」の物語を語る上で、時間の流れからいっても、「タイムレンジャー」を無視しては語れないように思うのだが、本書では全く触れていない。残念であると同時に、私が「ゼロ年代」の思想そのものに、いくぶん懐疑的であるのはこのためだ。
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ジャンル : 学問・文化・芸術