意見には個人差があります~テレビ版エヴァンゲリオン(2)~

 とりあえず最終2話に関する言説を、一つ一つ検証してみたい。

 まず「手抜き」。
 そもそも本作は、GAINAXが発注して、戻ってきた作画がひどかったものが多かったと聞く。それゆえ作画のゆがみや崩壊といった回が散見される。その修正のため製作段階での行程が、めちゃくちゃ遅れていたことは、よく知られている。それでもできるだけ動かない作画や、バンクによる作画の使い回しで、しのいでいたのだ。タイトなスケジュールはすべての作業を圧迫する。アフレコの際に絵が出来ていない状況などは当たり前だそうだ。このような悪癖は、いまもって改善されることがないらしい。OAで初めて絵を見る声優さんの声は後を絶たない。できるだけ絵コンテ作業や作画に時間をかけたいという願いは、このときも現在でも変わらない。それがエヴァが起点になっているのではないことは、理解すべきだろう。
 ところが、最終2話については、一部のバンクを使った事実はあるけれど、むしろ作画的には新しい作画をしていることは、見て貰えばわかることだ。ただし、その絵が手書きのもので、動画の枚数の少ないもので、極端に言えばパラパラ漫画のレベルであった。最終2話を非難する人は、これを指摘する。確かにこれはひどいと思える。庵野監督のインタビューによれば、従来のアニメーションによる作画手法では、表現に限界があるため、さまざまな表現方法を試したことが言われている。一面の事実ではあろう。またこれに対して、作画の手抜きをためのいいわけとして非難する。これも一面の事実かも知れない。だとすれば、「手抜きのための表現手法を試した」と考えてもいいのではないか。際限なく許容することが、必ずしも正しいとは思わないが、そういう見方も出来るだろう。
 スケジュールの管理が出来ていないことを、「プロ失格」と非難するものもいるだろう。それを作画に押しつけて、手抜きの映像を見せてしまうことに対して、懸念しない制作者がいるだろうか。ましてやアフレコに間に合わない作画体制を、いまさら非難したところで、始まらない。故・山田康雄がテレビ版のルパンのアフレコの際に、絵が出来ていないと帰ってしまったなんて話は、いまでも語り継がれている。しかしどこのスタジオでも、潤沢な資金と潤沢な人材で仕事が出来ているわけではないだろう。それを一視聴者レベルで文句を言う筋合いではない。ましてや「エヴァンゲリオン」という物語とは、関係がない話である。

 次に、「ドラマを放棄した」という点。
 テレビ放映後に劇場公開された作品を見れば、結果的にこの2本の話が、人類補完計画を、シンジという人物に関して切り取った体裁をとっていることがわかるだろう。その意味では、シンジという主人公の救済を目的とした話として、エヴァンゲリオンを見た場合においてのみ、この話は最終2話できちんと完結したことになる。周辺状況をまったく見せずに、シンジだけに注目し、ひたすらシンジの心の救済だけを絵にしていけば、正しくこうなるだろう。劇中「全員を取り上げる時間がない」という断りを入れている。だからこそ他のキャラクターについての「心の補完」はどうなったのか気になるところだ。だが補完は始まってしまった。キール議長の言葉を借りれば「エヴァンゲリオン初号機パイロットの、荒れた自我を持って、補完を開始しよう」といっている。最後の選択が碇シンジに託されたのである。だから他のキャラクターに対する補完は、シンジ次第なのだ。
 シンジの心の葛藤を、「筋書きのあるドラマ」で表現する方法があるなら、ぜひ教えを請いたい。そこまでのドラマがシンジを追い詰めて、補完計画を発動する事にあったのだ。発動したら、最後の選択をシンジにゆだねたので、彼の心理描写を細かに追っていく。つまるところドラマ自体が、最後の詰めのところで「ドラマ」であることを拒否した構成になっているのである。

 そしてこれはよく言われるところであるのだが、「エヴァ以降、最終回で全部放り投げる物語が多くなった。謎も残ったままだし」という話。
 話を放り投げるかどうかは、その作品の監督次第だろう。現在のように第2期が予定されている物語の場合、結末も謎もすべて積み残してしまうことも多い。第2期が期待されても、制作されるかわからない、そんな状況に追い込まれた作品もあっただろうし、急遽別の作品の放映が決まって、むりやり最終回を作らされている鬼太郎の最新作のような話もある。事情があるのだとは思う。だがこれだって今に始まったことではないだろう。「イデオン」や「バルディオス」が、打ち切りにより物語を完結させられなかった事実がすでにある。これも今や少なくはなったが、業界の悪癖である。エヴァだけ取り立てて目くじらを立てる話ではない。
 積み残された謎についてだが、これはあえて問いたい。その謎は、どうしても知らなければいけないことだろうか? 知りたいのなら知る方法がいくらでもある。謎解きをしたいのなら、いまからでも遅くはない。知る方法はネットでも書籍でも、いくらでもある。
 エヴァに関して言えば、命や魂に関連する話が多いから、その謎に関する事実や設定は、どちらかというと凄惨な場合が多い。そもそもこの問題を、あなたが「謎」と考えているかどうかが怪しいのだが、エヴァ各機には人の魂が宿らされていることは周知の事実だ。初号機には碇シンジの母、弐号機にはアスカの母の魂が宿らされている。では零号機にはだれの魂が宿らされているのだろうか? また四号機以降は? トウジが急遽パイロットに選ばれた事情を考慮してみるとわかるのだが。どちらの場合も想定される答えは凄惨だ。これを知りたいと願うなら、ネットでも書籍でも探してみればいい。私は何の疑問も持たずに、とある書籍にてその指摘を見つけたのであるが、フィクションとはいえ、あまりにひどい内容であった。知らなくてもいいことって、あるのである。

 以上、当時言われていた言説については、私なりの見解を述べた。その上で、私はあのテレビ版最終二話を、当時劇場公開された最終回を含めて、妥当な物語であり、佳作として評価している。あの二話をもってエヴァンゲリオンのドラマ全体が、なかったことになることはないと感じている。
 たしかに病んでいるし、しんどいドラマではある。だがドラマとともに14歳の自分と対話することは、決して無駄ではない。エヴァンゲリオンのドラマの通底にあるのは、間違いなく現実世界で地に足をつけて生きろということであり、現実から逃避する自分を肯定する話ではない。そんなきびしい話を誰が見たがると思う方もおられるだろう。それならば以前書いたように、「エウレカセブン劇場版」を見て欲しい。どちらでもいい、見たという事実は、きっとあなたの心に何かを残してくれる。それ自体が、きっとあなたの支えになるだろう。
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テーマ : 新世紀エヴァンゲリオン
ジャンル : アニメ・コミック

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No title

初投稿させていただきます。

良い記事を読ませて頂き、ありがとうございます。エヴァ最終二話に関しては、僕もおおむね波のまにまにさんと同じ風にとらえています。ところで、「手抜きのための表現手法」に関して触れておられますが、これについては僕の意見(妄想?)は少し違います。うまく説明できるかどうか分かりませんが、僕の見解を少し話したいと思います。結論から申しますと、あれは完全に意図的なものだと思います。

まにまにさんは庵野監督がNHKの「ようこそ先輩」に出演した回をご覧になられた事がありますか?(某動画サイトにあります)1999年ごろの映像です。庵野監督が、自分の通っていた小学校に帰り、子供たちにアニメーションの作り方を教えているんです。庵野監督はまず、「アニメというのはですね、イメージなんですよ」と言い、黒板に丸を書きます。そして、その下に線を引きます。線を一本引いただけで、丸が浮いているように見える、と親切に説明しています。その直後、庵野監督は子供たちにペラペラと紙をめくっるタイプのアニメを子供たちに作らせます。

この描写はまさにエヴァンゲリオン最終二話で使われています。シンジが宙に舞っていて、「白」の世界で彷徨っているとき、自分の下に線がひかれたとたんに地面で歩き始めるシーンです。僕の仮説はこのとうりです:庵野監督はアニメの限界に挑戦していた。これは彼にとって、原点に戻る意味もあったはずです(「ようこそ先輩」を観れば、よりこの意味が理解できるかと思います)。では、アニメの限界とは何か。僕は、視聴者がアニメの世界を信じる為に最低限必要な情報だと考えています。これは、「絵」であったり、「台本」、「声優の演技」等々ですよね。庵野監督はこの「情報」を壊していく事によって、この「限界」に挑戦していたんだと思います。

いったん、話を少し変えます。「ドラマの放棄」についての僕の考えです。この事に関しては、ぼくはまにまにさんとほぼ同じ考えです。放棄も何も、「あれ」がエヴァンゲリオンという作品の終わりなんだと思います。TV番最終二話と、旧劇場版は、同じ話なんです。逆に言えば、あれ以外の結末があり得ないんだと僕は思います。

それでも、視聴者はそれ以上の物を求めていた。アニメにアニメ以上の物を求めていた(?)。ここで、庵野監督の返事は、こうです。「現実に帰れ」と。アニメは所詮、アニメなんだと。綺麗な動画だろうと、絵コンテだろうと、紙芝居は紙芝居なんだと。アニメの「情報」を壊す事によって、庵野監督はこれを示しています。

以上、僕の意見です。敬語が不得意なので、ところどころで文章が乱れていますが、すいません。ご意見、ご感想お待ちしております。

No title

よっしーさま

 うれしくなるほど手ごたえのあるコメント頂戴しまして、本当に感謝いたします。こういう反応が本当にうれしく感じます。上記の私の意見に反論、あるいは同意いただき、まずはありがとうと言わせてください。

 その上で・・・・・

 まず「作画」の件について、NHKの「ようこそ先輩」は、私も見ております。あの中で庵野さんが白い紙に丸を書いて、その下に線を一本入れた瞬間に、ああ、あれがエヴァ最終回の原点だなと思いました。私は記事中で否定的な意見をひるがえすために、消極的にあの作画を肯定しましたが、より積極的にあの作画を肯定するには、「ようこそ先輩」の庵野さんのアニメの根本の授業は、大変重要な意味を持つことがわかりました。よっしーさんのご指摘はまことにごもっともだと思います。

 ただし、一つだけ気になるのは、あのエヴァの最終回の土壇場で、アニメを解体し、その限界を確かめることに、どれだけ意味があったでしょうか? 受け取り手である視聴者側を考えると、エヴァを離れてアニメの根本をあそこで語ることには、さして意味がないのではないかと思われます。それは「サービス、サービスう」に相反すると思われます。

 とすれば、庵野さんがあの絵コンテ(絵コンテ集にはすでにあの絵で描かれています)と作画で何がしたかったかと、あらためて考えてみます。
 「現実に帰れ」が庵野さんの主張だと仮定すれば、それは「あなた方が見ているアニメとは所詮こんなもんだ」という提示であることになるでしょうか。それは庵野さんの偽悪趣味がさせた行為だと思えます。
 ですがあの作画はその一方で、シンジの「個」を規定するための意味付けであること、そしてその意味付けこそが、庵野さんのアイデンティティを確立させ、14歳の自分から現実年齢の自分になるためのイニシエイションだとしたら、庵野さんの偽悪趣味よりも、庵野さんの自分史としての成長を意味するのではないでしょうか? つまり、アニメの解体と根本の理解とは、いままで自分の中で漠然としていたアニメを再確認する意味を持ち、同時にアニメと不可分であった自己を、アニメの根本の理解の中できちんと確立させたタイミングだったのではないかという考え方です。わかりづらいですかねえ?

 「ドラマの放棄」に関しては同意いただけて、胸をなでおろしています。
ですが、この「ドラマの放棄」はシンジ=庵野さんを仮定したとき、その内面の自己認証や自己肯定を獲得し、当人の成長が約束されて、「おめでとう」という祝福の中で自分の成長を見つめなおせたときに、放棄されたドラマは再びドラマとしてスタートしたのではないでしょうか。

 そう考えを進めていくと、現時点で劇場公開されている「新劇場版」は、自己肯定や自己認定することができたシンジ=庵野さんのリセットから作られた物語だということもできるのではないでしょうか。ことここにいたり、新劇場版で庵野さんは、やっと人の心の闇をや光を肯定した、ドラマを作れるようになったのではないかと愚考する次第です。

 ああ、テレビ版をまた見なおしたくなりました。

 またコメントいただけるとうれしいです。今後ともお付き合いくだされば幸いです。
プロフィール

波のまにまに☆

Author:波のまにまに☆
東京都出身
43歳になりました 
妻一人

戦隊シリーズをこよなく
愛する、男オタ。
特撮は主食、
アニメは副菜。
後期必殺を好み、
スタートレックは
ピカード艦長が大好物。
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