「フラクタル」~その1・フラクタルシステムの矛盾~

 世の中ほめられるべき時に個人名が上がることは決して多くないのだが、悪かったことを取り上げる時にはなぜか個人名が出る。筆者が今の生活を続ける以前に勤めていた建設コンサルタント会社でも、似たような例は掃いて捨てるほどあった。
2011年1月期スタートの、ノイタミナのアニメ「フラクタル」に関するネット上などでの言説の数々もこの例に当て はまる。放送前には本作の監督である山本寛監督が、「これが成功しなかったら引退」などと発言して話題にもなったし、原案として名前が挙がっている思想家・東浩紀氏に関する放送直後のTwitterでのツイートの数々も、守勢一方で気の毒に感じるほどである。制作側の本人たちの発言以上に、ネット上での本作への評価は辛らつを極めており、いい評価を聞いたことがない。それが単なる風評被害なのか事実なのかは、自分で確かめるしかない。そこで今回は「フラクタル」という作品を取り上げる。
本作はネットや雑誌等で指摘されるように、表面上の問題点や矛盾点は数多いし、物語的な弱点もある。それを相殺してありあまるほどの魅力が本作にあるかといえば、それは筆者にとってもはなはだ疑問だ。だが「何か」を考えるには、いろいろと問題点が配置されているという面白さがある作品ではあると思う。せっかくなので、いろいろと考えてみたい。

<物語と概要>
 ノイタミナ作品「フラクタル」は2011年1月~4月初旬まで放送されていた作品。原作は山本寛・東浩紀・岡田磨里によるユニット「マンデルブロ・エンジン」。しかし実体としてはストーリー原案を東氏が担当し、岡田氏はシリーズ構成および脚本(メインライター)で、監督を山本氏が担当するというラインナップ。発売中の「フラクタル オフィシャルログブック」(学研)に収録されているインタビューによれば、東および山本の両氏が出し合う意見を岡田氏がまとめるというのが実態だったようで、岡田氏に対する両氏の信頼は絶対だったようである。同書に収録されている絵コンテおよびその解説を見るに、脚本家ら絵コンテの段階で、台詞の改変などは日常的であったらしく、最終的な判断は山本監督が責任を引き受けた状態のようだ。インタビューを見れば、東氏と山本監督との間にあった確執については推して知るべしな状況であるが、「最終的な判断は監督が」とのたまう東氏に対し、それを承る姿勢を取る山本監督を見るにつけ、衝突を繰り返して消化できなかった作品の不遇は、十分に感じられる。

 物語は32世紀の地球が舞台となる。22世紀に開発された「フラクタルシステム」このシステムの恩恵により、人々は高度にネットワーク化された状況下で、働く必要性も争うこともなく、個々人の幸せを追求して生きられる世界を手に入れた。主人公・クレインは、そんな世界で居を構え、アンティークとなった機械に囲まれながら、父母の人格を反映したドッペルと呼ばれるアバターと暮らしていた。
 ある夜、クレインは何者かに追われている一人の少女に出会う。その少女の名はフリュネ。クレインは彼女を介抱したものの、翌朝にはペンダント一つ残してフリュネは去ってしまった。だがペンダントの中から幼い少女・ネッサが現れ、クレインに付きまとう。そうこうしているうちにクレインはネッサとともに、フリュネを追いかけていたグラニッツ一家に捕らえられてしまう。グラニッツ一家はフラクタルシステムを否定するロストミレニアム運動の一派であり、クレインは彼らからフラクタルシステムは緩やかに自壊する事実、そしてフリュネとネッサはそれを修正する鍵であることを知る。フラクタルシステムを管理する「僧院」の人間たちは、「星祭り」を行っているが、その実体は人間に埋め込まれたフラクタル・ターミナルの書き換え作業であり、システムに疑問を抱かせないようにするための儀式だったのだ。フラクタルシステムの一側面をクレインは知る。そしてゆがんだフラクタルの世界に疑問を持ち始めたクレインは、助け出したフリュネやネッサと一緒に世界の現状を眺める。その後グラニッツ一家は、世界に散らばったロストミレニアムの仲間たちとともに僧院襲撃に打って出る。フリュネに隠された秘密は?クレインはそんな世界をどうしたいのか? そして世界は新しい一歩を踏み出せるのか?

<フラクタルシステムの問題点>
 前述の通り、本作には問題点や矛盾点が多い。だがそうした点を覆い隠すだけの強力な物語などが、そうして部分を忘れさせてくれさえすれば、あまり気にならなくなるものであるが、そうは問屋がおろさない。逆に言えば本作はどうしても些細なつじつまが気になってしまい、大きな物語のうねりに視聴者の気持ちが埋没できないために、正の感動が得られにくい構造になっているのだ。これも本作の問題点の一つだろう。
 1話を見て誰もが指摘する「ジブリっぽさ」に関しては後述するが、これがあえてそのように選択されたことは、本作を語る点で実に重要な点だ。そして主人公クレインの視線で展開する物語は、唐突に2人の主要な女性キャラクターを紹介する。それが1話と2話の最重要なポイントとなっている。その意味では必要不十分な1,2話といって差し支えない。これが物語の導入であり「引き」なのだから。だがここでこうした物語や導入の理解を妨げるのが、グラニッツ一家3人の見せる「ジブリっぽさ」なのだ。こうしてよさげに見えている点すら問題点に変化するというシフトが、本作には数多く存在する。

 そして最大の問題点は、物語の根幹をなす「フラクタルシステム」自体にある。当初説明される「フラクタルシステム」は、人間にターミナルを打ち込み、「祈りの時間」に「昼の星」を見つめてデータの交換を行うだけで十分な福祉を与えられ、その恩恵により飢えることもなく、働くことも争うこともない世界とされている。1話でのクレインの行動や言葉を聞く限り、ターミナルさえあれば人を選ばず高度医療が受けられ、傷病に対する懸念がなく、衣食に関しては必要十分である。住に関しては個々人の自由であり、クレインはこの世界では珍しく家屋を構えて定住しているという設定だそうだ。この設定自体は福祉が充実した国を想像すればいい。しかも税金がない。ペナルティはあくまで「祈りの時間」のみ。祈りをささげることのみを課せられて、幸せが訪れるということであれば、世界的な宗教となんら変わりない。表面的にはおだやかでやわらかで、だけどどこかきな臭い。それが1話でのフラクタルシステムである。

 その後、グラニッツ一家の登場や僧院によるフリュネの拉致などにより、フラクタルシステムを司る僧院と、それと対立する「ロストミレニアム運動」を行っている人間たちがいることがわかる。この「ロストミレニアム運動」は、フラクタルシステムから逃れ、自給自足によって人間本来の生活を取り戻すことを目的としている集団であり、後半になるとグラニッツ一家意外にも多くの氏族が存在することがわかる。この段階で世界は2分されたことになる。すでにフラクタルシステムはほころび始めており、フラクタルの影響が及ばない地域というのも存在する。6話に登場する「圏外難民」などがそれにあたり、彼らはフラクタルの恩恵を受けられないために、他人に懐疑的になっている。つまりこの世界にはフラクタルの恩恵を受ける世界と受けない世界の二つがある。しかも7話に登場する「ザナドゥ」という街は、フラクタルシステムが完全に機能している数少ない街として登場し、ここだけは外部を知らずに繁栄を謳歌している。だがその半面でザナドゥの人間は、フラクタルの恩恵を受けるために、僧院と取引をしてクレインやフリュネたちを陥れたり、自らを僧院に承認されるために自らの生みだす芸術の価値を高めようとしている。つまりザナドゥにおいては、フラクタルの恩恵を受けるために、何らかの対価が必要な場合もあるようなのだ(これも矛盾点)。

 さてここで筆者は気がついたのだが、「フラクタル」という作品世界には、フラクタルの恩恵を受ける世界が上記のように決められている半面、「国」や「国家」という概念が登場しない。ではフラクタルシステムが機能するために必要な物資は、どこから調達されているのだろう? 少なくてもザナドゥでは何かが生産されている描写は見られない。フラクタルシステムが機能する世界とは、消費のみで生産がない、まったく奇形的な世界なのである。人間が生きるために自らの努力で農産物を生産している描写は、フラクタルの恩恵を受けない世界でしか見られないのだ。だとすれば、フラクタル世界が十全に機能するためには、その物資をフラクタルの恩恵を受けない世界から農作物を輸入する方法しかない。だが本作ではフラクタルシステムとロストミレニアム運動をしている人間たちは対立している。輸出入などが両者の間で発生するはずがない。だとすればフラクタルシステムが機能している世界の人々が知らないところで、システムを司る僧院は、システム維持のためにどこか別の場所に侵略戦争を行っている可能性があるということだ。僧院がなぜに武装しているかという理由もここに求められる。別にロスミレのために武装しているわけではないのだ。

 しかもフラクタル世界を維持するためには相応量の物資が必要であり、それをフラクタル世界の外界に求めるのであれば、その世界を侵略し尽くすことは、フラクタル世界の自壊を招く。だとすればフラクタルシステムがほころび始めるのは、当然だとも言える。維持できないシステムを維持するために、圏外難民を生み出し、一定数のロスミレを生み出し、農作物や物資を作らせ、それを搾取するために武力によって制圧する。制圧し尽くしてはダメで、システムを維持するためにはロスミレが必要なのだ。これはそもそもフラクタルシステムの機能上の矛盾なのである。つまりフラクタルシステムは、生まれながらにして自壊するように仕向けられた機能不全のシステムであり、実のところ、物語の始まる必然のない世界だと言える。

 「フラクタル オフィシャルログブック」(学研)に収録されている東浩紀氏のインタビューによれば、「フラクタルシステムは崩壊しないといけない」としており、この点においては山本監督との間に意見の一致を最後まで見なかったという。だが上記の観点に立てば、本来自壊するフラクタルシステムは、誰かの手によって崩壊させられるような絶対悪でもなく、現代の税収入ありきの福祉という大前提がある世界の前では、システム破壊を絶対的に選べる日本人などいはしない。それこそ幻影でしかないのかもしれない。

追記
 なお先述の「フラクタル オフィシャルログブック」に収録されている東氏による設定原案によれば、この世界の食料や物資は、完全に機械化された生産システムが構築され、人件費すらかからない状況下にあり、人間はタダ同然の食料を口にしているとのこと。むしろ状況は供給過剰な状況にあるらしい。ではその農場や生産工場はどこにあるのか? 問題はその設定を画として表現できていない作品自身に求められる。だがここにも工場や農場を確保する土地が必要になる。人が関与しない生産であれば、人がいない土地での生産が可能だ。ということはその土地を確保するためには、領土の奪い合いが発生する。この世界には、どこまでいっても闘争の影が消えて無くならない。「争う必要がない」などというのは、やはり設定上の矛盾である。ましてや生産の状況を知らずに人々がモノを口にしているということがありえるのだろうか? これはフラクタルシステムへの人間の依存がそうさせていると考えるべきところだが、「農業従事者」あるいは「一次生産者」という人々の存在を完全にスポイルしてしまっている。彼らが利用している資材は誰が取得し、誰が加工したものか? 時間を重ねて作られた土地や人や農作物というのは、そんな単純な話に落とし込まれるものではないと思うのだが。

<フラクタル世界の自由って何?>
 またこの作品世界では個人の「自由」が最大限尊重されることが「自由」とされている。興味深いのはクレインの父母がクレインのそばにおらず、夫婦といいながら共に生活せず、それぞれがまったく別のところにいながら、「ドッペル」と呼ばれるアバターをクレインの身近において生活を営んでいる。当然このドッペルには生殖機能はないだろう。しかもクレインの腕の一振りでその場から消えてしまうほど、ドッペルの存在は脆弱なシロモノなのである。つまりこの夫婦のふりをしているドッペルは、すでに夫婦としての機能を放棄していることになる。クレインはドッペルを相手に家族ごっこをさせられていたわけで、彼が家を飛び出して冒険に出ることができる理由は、家に彼を引きとめる家族が存在しないことが重要なのだ。言うに事欠いて彼らはそれをもって「自由」という。それはフラクタルシステムが前提の「自由」なのだ。
 一方グラニッツ一家、ひいては一家の船・ダナンや彼らのキャンプでの暮らしの中で、クレインは一家の人間たちが、フラクタルシステムを逃れながら、土地に根付いて生活すること、そしてそこで農作物を作り、自活することを目の当たりにする。そしてクレインはそれこそが「自由」であると言われるのである。

 この対比は実に興味深い。作り手がこの設定に込めた思いの発露は、設定の端々に見られるが、この「自由」の対比は実に現代の日本の「自由」に対する考え方の変遷が込められているような気がする。
 乱暴な対比を許してもらえるなら、グラニッツ一家の求める「自由」とは、70年代的であり、農村を含む家族や血統を重んじながら、そこからの離脱を夢見ながらも家族や血統の中で自分のいるべき場所を見出すこと自体が「自由」とされていた時代を反映している。それはいわば劇場版「銀河鉄道999」や続編「さよなら銀河鉄道999」の中に見られる主人公・鉄郎の目指す「自由」であり、それらに客演した「宇宙海賊キャプテンハーロック」の語る「俺の旗のもとに、俺は生きる」的な「自由」なのだ。それは家族(疑似家族)や血統の中で、生きるための方向性を一つにする考え方であり、一見するとバラバラな方向を向いているように見える家族でも、背中あわせになっているから信じあえるという、家族や血統に根付いた信頼をベースとして発生する振れ幅の中の「自由」である。

 一方のフラクタルシステムに庇護された「自由」とは、そうした血統や家族などの束縛されない「自由」である。個々人は自由を謳歌している一方で、ベースがないために家族や一族以外の他人とのつながりの中に、新しい人間関係を求めて自己を確立する「自由」であるが、人間としての根本が見つからないまま「自由」を振りかざすから、他人を傷つけることや他人との関係を容易に断ち切ることができる「自由」なのである。確かにそれは束縛をされない自由であるが、他方根なし草であるから自分の生まれの証を立てる方法が見つからない。揺らいだ「自由」なのである。それはまた家族関係の崩壊が招いた2000年代の「自由」のありようだといえる。

 この二つの「自由」は、現代の日本を見れば併存している「自由」だとわかる。「フラクタル」という物語においては、どちらが正しいという答えを出すわけでもなく、クレインはシステムが緩やかに自壊することを確認した上で、フラクタル世界とシステム以外の世界が共存している世界を良しとしており、この作品世界はスタート時とまったく変わらないという結末を迎える。この二つの「自由」の対比はまったく意味をなさず、ゆえに物語的にもスポイルされて放り投げられてしまうのである。クレインの決断は、フリュネやネッサと一緒に暮らすことであり、単純に「嫁を手にした」というところで終わってしまう。決断をしてもそれに対するリアクションがないところは、いわゆる「ゼロ年代」的な作品とは一線を画するといっていい。だがそれをもって新しい物語とは断じていいがたい。つまり「フラクタル」という作品は、「ゼロ年代」的なことを否定している作品ではあるが、「ゼロ年代」をつきぬけた作品ともいい難い作品となってしまったのである。ただし、それゆえに2011年という年回りに製作された作品としては、模索の中にあった作品であったのではないだろうか。

 次回は、本作の見た目の特徴であるジブリっぽい点を追いながら、その目的がどのへんにあったのかを探ってみたい。お付き合いいただければ幸いです。
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No title

>だがその半面でザナドゥの人間は、フラクタルの恩恵を受けるために、僧院と取引をしてクレインやフリュネたちを陥れたり、自らを僧院に承認されるために自らの生みだす芸術の価値を高めようとしている。つまりザナドゥにおいては、フラクタルの恩恵を受けるために、何らかの対価が必要な場合もあるようなのだ(これも矛盾点)。

確か、今月のカネを使い果たした、このままでは都市から追放される、だから僧院に芸術品を認めてもらったり人をさらったりしなければならない、というような感じだったと思いますが。
そもそもフラクタルシステムで受け取れるものは基礎所得の筈ですし、それを使い果たしたら更に貰えるということではないでしょう。

>だがここにも工場や農場を確保する土地が必要になる。人が関与しない生産であれば、人がいない土地での生産が可能だ。ということはその土地を確保するためには、領土の奪い合いが発生する。この世界には、どこまでいっても闘争の影が消えて無くならない。「争う必要がない」などというのは、やはり設定上の矛盾である。

今現在だってど田舎の山ばっかりのところとか、砂漠地帯などタダ同然の土地なんていくらでもあると思いますが。その土地を「政府が相場の100倍の金額で買い上げます」、と例えば言ったとして、反対する人間など居ないと思いますし、居たら居たで他の人から買い上げればいいのでは。

>ましてや生産の状況を知らずに人々がモノを口にしているということがありえるのだろうか? これはフラクタルシステムへの人間の依存がそうさせていると考えるべきところだが、「農業従事者」あるいは「一次生産者」という人々の存在を完全にスポイルしてしまっている。彼らが利用している資材は誰が取得し、誰が加工したものか? 時間を重ねて作られた土地や人や農作物というのは、そんな単純な話に落とし込まれるものではないと思うのだが。

質のいい物資がタダで貰える、という事実に最初の世代は少々反感を持つかもしれませんが、今の私達だって正体不明のスーパーの惣菜を普通に食べてますし、メイドインチャイナの工業製品や衣料品など買ってますし、そんなことに一々疑問を持つ人はそんなに居ないでしょうね。二世代目以降は。まぁ、疑問を持つ人がロスミレになってるんでしょうが。

No title

また、単なる推測ですがこれは世界統一が終わった後の統一政府の下の世界の話だと思います。
地上で取れる資源を人件費タダで収集加工し均等に配ることなど技術がもう少し進めばそう難しいことではないでしょう。
それで足りないということもないと思いますし。なので、侵略戦争などは無いと思いますが。
また、僧院の空中戦艦のようなものはシステムの維持の一環でしょうしあの世界で持ってて特に損はないでしょう。
フラクタルシステムが壊れているのは経年劣化でしょうし戦争で落とされるということではないかと。
このシステムの唯一の欠陥は再起動が困難なことと再構築が出来ないところでしょうね。

No title

ハルさま

 コメントいただきまして、ありがとうございます。
 
 最後にご指摘いただいた「再起動が困難なこと、再構築ができないこと」という点につきると思います。このご指摘は慧眼です。本当にありがとうございます。

 ザナドゥでは芸術的価値を認めるということは、「自らが何かを生み出す」ことに価値を見出している証拠だと思えてきました。一次生産者や農業従事者についても、少なくてもロスミレ以外の人物が、これに従事している姿を劇中では見れていません。政府が土地を買い上げても、それに従事する者がいない状態なのでしょうか? 自動的に生産されている物資だとしても、それは過去の遺産として利用されている機械であって、それを修繕して永続的に使い続けることができないとしたら、やはりフラクタルシステムは破たんするでしょうね。産地など気にしないフラクタルの人々なら、エビの産地偽装なんて、問題にならなかったはずでしょうに(笑)。

 ザナドゥでも基礎所得は受け取れるでしょうが、それでもザナドゥの人間が犯罪に手を染めてまでさらにフラクタルの恩恵を受けたいと願っているのであれば、それは基礎所得以上のものが必要だったからではないでしょうか? こうした基礎所得では満足できない人間たちに、芸術的価値を認めて恩恵を施すことによって、システムはその一方で破たんを進めていくことになっている。このエピソードはフラクタルスシステムの破たんが、ハード的な修繕不可能な点と同義で、システムを利用している人間によっても引き起こされているという事実を端的に示しているのでないでしょうか。

 と、これもあくまで私見です。
 コメントありがとうございました。
プロフィール

波のまにまに☆

Author:波のまにまに☆
東京都出身
43歳になりました 
妻一人

戦隊シリーズをこよなく
愛する、男オタ。
特撮は主食、
アニメは副菜。
後期必殺を好み、
スタートレックは
ピカード艦長が大好物。
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