「スカイ・クロラ」~映画的な、実に映画的な・・・~

 日本映画界が斜陽だという。別に今に始まったことじゃない。そう言われ続けてすでに数十年になるのだ。じゃあ日本映画の何が悪いのかといえば、日本映画の側に理由があるわけではない。映像媒体のエンターテイメントとして、かつての映画の役割をテレビが果たしてしまったからだ。しかも劇場で料金を払って見る嗜好を必要としないテレビは、一気に映画を追いやってしまったのだ。
 だがテレビ作品を作っている人々は、いつか映画を作りたいと願う。テレビ作品のスピンオフ作品が存在する理由はそこにある。毎年のように制作される仮面ライダーや戦隊シリーズの劇場版もまったく事情は変わらない。映像作品を作る人は映画を目指すようである。今でもそういう人にとってはテレビよりも映画が上位にあるようで、どうやら映画というのはテレビよりも高尚であると考えているらしい。

 アニメ作品でこれを考えてみると、宮崎駿監督や押井守監督、細田守監督や亡くなった今敏監督など、劇場用アニメ作品しか作らない監督がいる。テレビアニメで疲弊しきったアニメ制作の現場が、製作費の枷から逃れるためには、具体的に収益の上がる映画のほうがよい。実際にスタジオジブリはそうしたアニメ制作現場の改善を目指したからこそ、採算性の高い集団として認知されるようになった。だが内容的にはどうだろう? 内容は映画となりえているのだろうか? 1クールの作品が1本の物語として訴える場合、それをして「映画的」といわれることがある。だが映画にもたくさん種類がある。日本情緒を前面に押し出した「鉄道員」や「ALWAYS」、退廃的な雰囲気を漂わせたフランス映画、派手なアクションやCGで魅せるハリウッド的な映画、ダンスを基調としたインドの映画などもあるから、総じて「映画的」という言葉は安易に使ってよい言葉じゃないような気がしてくる。だが今回ご紹介する押井守監督作品「スカイ・クロラ」は、実に「映画的」といっていいんじゃないだろうか。

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<物語と概要>
 「スカイ・クロラ」は森博嗣の小説を原作として作られた劇場用アニメ作品。押井監督作品としては2004年の「イノセンス」以来の4年ぶりの新作映画として2008年の夏に劇場公開された。本作の公開に際して押井監督は「若い人に、生きることの意味を伝えたい」という発言を残している。

 物語は国家間の戦争を企業が行っている世界で、「キルドレ」と呼ばれる少年少女たちが最前線に立って戦っている時代を背景に、主人公とおぼしき戦闘機パイロット・函南優一(カンナミユーイチ)やその上官である草薙水素(クサナギスイト)たちが織りなす物語。いや実際の作品を見てもらえばわかると思うのだが、彼らの戦闘行為を含めた日常を描写する内容であり、物語性をまったく排したこの映画の作りは抒情的であり詩的である。主人公を含めたキャラクターたちが、その心情に従い活動的に物語を作るわけでなし、淡々と自分のおかれた状況を自然に嚥下するように描かれている作品となっている。
 本作には特殊な単語が頻出するが、その代表は主人公たち「キルドレ」の存在だろう。設定によれば、思春期で成長が止まり、その姿のまま永遠に生き続ける存在とされている。どうやら普通の人間のように生殖行為も妊娠・出産も可能であることは作中でほのめかされているものの、思春期のままの姿で永遠とも言える時の流れの中に生きる彼らの生きざまは、とみに退廃的だ。原作では新薬開発の途中段階で偶然開発された人工の生物種のような書かれ方をしているようだが、劇中「キルドレ」についてはほとんど語られることがない。だが生きる意味も目的も見いだせないような閉ざされた世界の中で、自分自身を模索するようになっていく主人公ユーイチ、繰り返されていく日常の中にも変化点が存在し、そこを起点に変化していく状況を受け入れていこうとする草薙の、生き生きとした表情のラストを見ると、そこに込められた押井監督のメッセージははっきりと読みとれる仕組みの映画だと言っていい。

<退廃と背徳>
 この映画、ネットではずいぶんと批判されているのを目にする。いわく物語がわからないとか、いわく世界観が説明不足だとか、いわく戦闘シーンだけはいいとか。宮崎駿監督にしたところで、本作評は「戦闘機の戦闘シーンはよかった」程度の感慨しか持てなかったようである。だが先述の通り、押井監督のメッセージがあからさまに伝わっているからこそ、本作に見られる日常と非日常の中に埋没しそうな日々に意味を見出す主人公たちは、監督の込めたメッセージをきちんと表現している作りになっている作品だと感じることができる。逆説的に言えば、監督の言葉がなければ、その点に思いを致すことができなかった可能性は大いにある。だが気づくことはできるはずだ。そのための小道具もエピソードも、きちんと積み重ねられている。

 だが本作の製作にあたりこれまで押井監督が積み上げてきた表現手法などをふくめ、物語性をまったく排してしまったことは、これを伝えづらくしているかもしれない。もっともそれゆえに本作が持つ雰囲気は、実に「映画的」であると思えるのだ。
 例えば、キルドレと呼ばれる主人公たち戦闘機乗りや軍人たちが、いちいちタバコを口にする点、また待機中であるにもかかわらずビールなどのアルコールを摂取するシーン、勤務時間外に基地の外に出て娼館を訪れるシーンなど、本作に付きまとう印象は常に退廃的であり背徳的ですらある。細かい話をさせてもらえば草薙とユーイチのキスシーンに挟み込まれる拳銃などは、露骨すぎる性衝動の発露を拳銃という表現でなされるあたり、十分すぎるほど淫靡なシーンすらある。この映画全体に流れる退廃的で背徳的な雰囲気を考えると、この映画はカトリーヌ・ド・ヌーブの「昼顔」などに見られるフランス映画に近いテイストなのではないかと感じるのだ。その意味では十分すぎるほど「映画的」な作品ともいえる。フランス映画に限らず、ある程度退廃的で背徳的な雰囲気というは、文化レベルが頂点を極め、完全に行き詰った袋小路の状態だからこそ、醸し出される雰囲気ではないか。生活に不自由せず、日常に疑問も持たずに生活できる状況下ならば、精神的な袋小路が性衝動をもって発露する物語は、「チャタレイ夫人の恋人」やシルビア・クリステル主演のフランス映画「エマニエル夫人」といった性的描写を含む映画や小説などがわかりやすいか。こうした作品群はいずれもアンニュイな雰囲気で、背徳や退廃的な印象がつきまとう。本作にある雰囲気を表現すれば、私はこれらを擁するフランス映画的であると感じたのである。

 性的な表現を除いても本作の持つ背徳感や退廃的な雰囲気は除くことができない。だとすれば、戦争や闘争にこだわって押井監督が作り上げてきたパトレイバー→攻殻機動隊→イノセンスという流れの中で、押井さんは小難しい理論や背景を切り捨てて、自分の中で頂点に達した作劇のセンスをフィルムに固定化したことで、本作は押井監督が目指したまさに「映画」となったのではないか? あくまでに私見であるが、その意味では、「スカイ・クロラ」はまさに「映画」的な作品であると言える。だから通常のアニメーション映画で得られるドラマの充実感や感動という物差しで見れば、この映画は確かに規格外になってしまう。だが本作はまさに「映画的」であることを考えれば、本作の評価基準はより「映画」的な判断がなされてしかるべきではないだろうか。

<“打破”ではなく“発見”>
 押井監督は先述のように「若い人に生きることの意味を伝えたい」という言葉を本作に残している。またネタの部分は否めないが、本作には並々ならぬ意欲を持って劇場公開に望んでいる様子が伝わっている。そのテーマ性について、ちょっと考えてみたい。それはユーイチと草薙の関係に集中すると見えてくる。

 劇中序盤において、ユーイチは自分の登場する機体の前任者ジンロウをずいぶんと気にしている。はっきりと示されてはいないのだが、ユーイチはどうやらジンロウの性能や記憶の一部を引き継ぐキルドレらしいことがほのめかされている。一方でジンロウと草薙は特別な間柄であり、草薙がユーイチと出会った当初のよそよそしい態度はその表れだろう。だが草薙はどうやらジンロウを殺しているのである。それはジンロウが殺してくれと願ったからであり、草薙はジンロウを愛していたからであり、愛するジンロウの願いをかなえてやりたかったのである。キルドレという過酷な人生を背負わされた草薙。彼女はそれまで人を愛することを知らなかったと見える。だが草薙はジンロウを知って愛を知り、彼の望みをかなえるために愛を失った。その後、草薙の前に現れたユーイチは当然のことながらジンロウではない。草薙はユーイチを見て、彼を失ったことの悲しみを改めて知ったのではないか。そして再びユーイチに好意をよせることで、以前よりも少しだけ前向きに生きることを知る。さらに以前は見方であったはずのパイロット・ティーチャーが敵として登場する。この強敵ティーチャーの存在もまた、作中ではぼやかされているが、筆者にはどうにもキルドレの素体となった人物のように思えてならない。草薙のこだわりやユーイチのこだわりが、ティーチャーを巡って廻り始める時、ユーイチのこだわりが自身を殺し、ユーイチの死の中に草薙は日常の変化を読み取った。

 劇中ユーイチが語るように、日常を続けていくキルドレにとっては、日常はただひたすら続く今日でしかない。だが愛を知り、悲しみを知ることによって、目の前にいるユーイチはジンロウという、かつて草薙が経験した日常ではないことを認識し、はじめて草薙は変わらない日常に変化が生じたことを知る。立ち止まることを許さない日常を生きる草薙たちは、その気づきによって生きることの意味を知るのである。だからクロージングで登場したユーイチの後任者の顔を見て、ジンロウではなくユーイチでもない後任者を、草薙の日常の中の変化として読み取ったから、草薙の表情は明るいものとなっているのではないか。日常を「打破」するのではなく、変わり映えのしない日常の中に何かを「発見」することで前に進む力を手に入れる。押井監督がテーマとしたかったのは、そんなことなのかもしれない。

<日常と非日常と>
 本来「映画」を見る行為というのは、実写として撮影されたフィルムを見ることであるから、そもそも切り取られた「日常」の中に「非日常」を見出すことである。だが最近流行のファンタジー映画や、SF、アドベンチャー、アクションといったジャンルの映画は、数々の撮影技術を駆使して表現された「非日常」を見る映画となっている。特にCGを多用して実写に埋め込まれた映画もこれとまったく変わらない。

 先に示したように、本作のエンディングを真摯に受け止めるならば、ユーイチの死によって彼の記憶の一部を有するクローンが登場したクロージングのところで、草薙の「日常」はユーイチの存在ゆえに再度変化を果たしている。キルドレにとって永遠とも言える戦争行為を主体とした日常でさえ、飽き飽きするほどのくり返しの中で、草薙は些細なことで変化する「日常の中の非日常」を知ったのである。その発見と喜びをもって本作にはないはずの物語がエンドを迎えるのである。本作はアニメとして作られた「繰り返す日常」の中にあるささやかな変化としての「非日常」をきっかけに日常を見直す作品だといえる。本作は日常と非日常を見出す視線が重要な作品であり、「非日常」を見るタイプの映画を見るつもりで本作を見れば、「日常」を打開するヒントは見えづらい。それはCGなどで簡易に作られた「非日常」を見る映画を見慣れた目では、わかりづらい視点かもしれない。特に見栄えのいい戦闘機による戦闘シーンに目がいけば、おのずと本作に対する評価が貶められるのは、宮崎駿監督の発言を見ても明らかではないか。

 本作は日常の中に非日常を見出し、発見していくことで人が前を向いて進んでいくことを力強く肯定している。それは「映画」という媒体が本来持っているものの見方であり、あえて物語性を排した作品作りをなすことで浮き彫りにされる構成になっている。本作に流れる退廃的で背徳感漂う雰囲気は、そもそも行き詰った世界の現状の袋小路を表現し、そこから脱却を図るヒントを示してくれているのかもしれない。本作の持つ雰囲気が真に「映画的」であるとするならば、この2つの意味においてだと思えるのだ。

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コメント

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No title

映像媒体のエンターテイメントとして、かつての映画の役割をテレビが果たして>
もはや果たせなくなっている現状ですね。

あやふやな記憶をたどると、ここ十年くらいで見に行った
日本映画はガメラとエヴァ…
DVDですぐに見ることができてしまうので、洋画もろくに見に行っていませんが、
特に邦画は見に行きたいと思える映画も無く(自分の嗜好もありますが)、
日本映画も何かが悪いと思ってしまいますね。

No title

うめさん

 またあ、本編にくいつかないくせに枕にくいつくんだから・・・・

 ここ10年で2本って、それもまた少ないやねえ。
 ただこの例を見れば明らかなように、作品の訴求力が低下していることは事実。

 とはいえ、テレビだけが問題ではないとは思うんです。いまさら指摘するまでもなく映画テレビ以外の娯楽も増えているからという事情もあるでしょう。

 最近考えているのは、批評により文壇の敷居が高くなることで、小説などの文芸が文化レベルが上がると同時に、文芸は一般の人々から乖離していった。同じことが映画にも起きていて、映画は文化レベルが上がったという見方もあるのではないか? アニメに批評の花が咲かない理由は、文化としてのアニメがあまりにも奇形だということを、暗に示しているような気がします。

文化として向上すると大衆は離れていく物

文化レベルを上げようとすると、「解る人だけ解ってくれればよい」ってなっていくような気がします。
絵画の抽象画やいわゆる現代アートみたいな物とか。

あれ評論家が評価するから価値があるのであって、一般の何の知識も無い人が見たら
なんだこりゃってなる物がありますし。無論一目見て言葉じゃ表現できない感情を切り取ったんだな
って感じることがわかるものもありますがそれは万人が同じように理解できるものじゃないし。

映像作品も映画が発明されて百年たってそういった方向に流れている部分があるのかもしれません。
無論エンターテイメント性を重視した作品もたくさんありますが、それって特にハリウッド映画なんかじゃ
制作費を出すスポンサーが、儲けるために作っている。
儲けるためには多くの人に見てもらわなくちゃいけない。
そこに一部の人しか理解できない物が入っちゃ見る人が制限されるだからひたすらわかりやすくする。
そういう図式があるんじゃないかと。

テレビの方がそれが極端に進んで、バラエティでやたら字幕入れたりして言葉は悪いけど
馬鹿でも解る番組作りをしている。
ただ最近はあまりにレベルを下げすぎて視聴者にそっぽを向かれ始めていますが。
何かだらだら書いていたら纏められなくなってきたんで終わりにします。

No title

mineさま

 まったく、本編には触れてない・・・・・
 せめて映画本編見てほしいんだけどなあ・・・・(苦笑)

 あなたの考えていることとほぼ同じ内容を、本文中に書こうとして止めました。理由はわかるよね?
収拾がつかなくなるからです。

 文化レベルが上がるのに必要な批評や論壇は、行き過ぎればその敷居を上げてしまったり、スノッブだけが行き過ぎたり、「わかるひとだけがわかる」という状況に陥りかねません。
 だけど批評や論壇がなければ、作品に対する理解を一般に流布することができない。映画もアニメもそうならないのは、エンターテイメントの側面に引っ張られているからであり、その幅をもって文化レベルが上がらない理由でもあるわけです。だがその雑然とした状況の中にこそ、何かが生まれる土壌が存在する。その状況こそが至高ではないか?
それゆえに文壇の世界にSFやラノベがジャンルとして存在し、後発でありながら善戦している事情があるのではないでしょうか?

 あくまで個人的な意見ですが、至高の一つよりも雑然とした多数のほうが私には好ましいです。
プロフィール

波のまにまに☆

Author:波のまにまに☆
東京都出身
43歳になりました 
妻一人

戦隊シリーズをこよなく
愛する、男オタ。
特撮は主食、
アニメは副菜。
後期必殺を好み、
スタートレックは
ピカード艦長が大好物。
Twitter再開しました!

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