「借りぐらしのアリエッティ」~それはもう恋なのか?~

 あけましておめでとうございます! 本年もよろしくお願いいたします。
昨年末の話で恐縮だが、地上波初放送とのことで、「借りぐらしのアリエッティ」を見ました。作品自体はすでに2年前の作品であり、いまさらこの作品を取り上げることに話題性もないのであるが、なにせ見ちゃったもんだから(笑)。

 「アリエッティ」放送の前の週は「天空の城ラピュタ」で、その前はキャストを一新した「ルパン三世」のSPだった。「ラピュタ」では例によって「バルス!」で2chやツイッターが大騒ぎをし、2年ぶりの「ラピュタ」地上波放送でネット界隈がにぎわい、落ちたの落ちないのという話題が翌日のネットを騒がせた。結果として視聴率は非常に高く、ジブリ作品強し!というよりもネット界隈のお祭り騒ぎこそが主役といった状況を呈していた。その翌週の「アリエッティ」であるから、ネット界隈でも再び沸騰するかと思いきや、意外に鎮静化していて、ツイッターにもタイトルがあまり上がらない、若干さびしい結果となった。なにもネットの評判だけがすべてではないにしろ、このお祭り感の差は歴然としていた。去年の年末のちょっとした話題提供としては、非常に面白い話だったと思う。ネットの世界が世論を構築する中国とは違い、日本ではまだまだエンターテイメント側によっており、お祭り騒ぎ以上のものは構築されない感じなのだ。お国柄と言おうか日本語の壁と言おうか。

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(2011/06/17)
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<作品概要>
 「借りぐらしのアリエッティ」は2010年7月に劇場公開された。原作はメアリー・ノートンのファンタジー小説「床下の小人たち」で、この作品が発表された1952年にカーネギー賞を受賞した作品とのこと。宮崎駿は脚本として名をとどめ、監督は米林宏昌氏に譲った形となっている。翌年の宮崎吾郎監督による「コクリコ坂から」もそうだが、スタジオジブリが「会社」としての生き残りをかけて新陳代謝を意図したことは明らかだ。「アリエッティ」の企画そのものは40年前に宮崎氏が盟友・高畑勲氏とともに作り上げた企画であり、それを練り直したものである。翌年の「コクリコ坂から」も吾朗氏の監督作品とはいえ企画は宮崎駿氏であるので、あいかわらずの1枚看板であるジブリの実態は、別段変ってはいないのかもしれない。なお本作品は2010年の日本映画興行成績第1位であった。

 物語の舞台は東京都下の小金井市のあたり。老いた女性の車で自然あふれる館に車で連れてこられた少年・翔が、ふと目にした小人の少女・アリエッティと出会ったところから物語が始まる。心臓に病気を抱えた病弱の少年・翔は、庭先の草の影に見つけたアリエッティの姿から、この館に小人が住んでいることに気づく。大叔母とお手伝い共に館で暮らし始める翔。その日、翔が寝ているベットに現れたのは、床下に暮らしているアリエッティとその父である。彼らはこの館に「借りぐらし」をしており、今日もまた生活必需品を手に入れようと館に侵入してきたのである。しかも好奇心旺盛なアリエッティにとっては初めての「借り」であった。だが翔に見つけられたアリエッティはせっかく手に入れた角砂糖を取りこぼしてしまう。がっかりしたまま家路につくアリエッティ。だが翌日家の出入り口である排気孔に、アリエッティは手紙とともに角砂糖を見つける。それは翔の好意であったのだが、アリエッティたちは人間に見つからないように暮らす掟があるため、それを素直に受け取ることができない。アリエッティの父は、それを契機に引っ越すことを考え始める。角砂糖を返すつもりで翔のもとを訪れるアリエッティ。そこでカラスに襲われたアリエッティは翔に助けられる。アリエッティは自分に優しくしてくれた人間としての翔が忘れられない。

 翔の住む古い家屋には、先祖代々小人が住んでいたようだ。だから先々代のころから小人の存在が知られていたようで、翔の母が家においていったドールハウスがあった。翔は大叔母からこのドールハウスを譲り受ける。そこで翔は小人に会いたいという願いから、床下のアリエッティの家の台所を、ドールハウスのものに取り換えてしまう。だがアリエッティの家族は、小人の借りぐらしが人間に知られてしまったことを知り、いよいよ住み慣れた家屋から出ていくことを決める。引越しの準備をし始める小人の家族。だが小人の存在に気がついたのは翔だけではなかった。お手伝いの老婆が翔の不可思議な行動から、小人の存在に気付いたのである。ある日、アリエッティは意を決して翔と対面する。立場の違いは容易に二人を和解させない。ふとしたことでアリエッティの母を捕らえたお手伝いは、残る小人を捕まえるために害虫駆除業者を呼ぶ始末。母が捕らえられた事を知って、アリエッティは翔に協力を請う。自分の行動を止められたくないお手伝いは、翔の部屋にまで鍵を掛ける。だがアリエッティの助力を得て部屋を脱した翔は、お手伝いの目を盗んでアリエッティの母を救出することに成功する。
 その翌朝、住み慣れた家を捨て引っ越すアリエッティは、翔との別れを惜しみ涙する。それは夏の日の、ほんのひとときの小人の少女と人間の少年の物語。

<「小さな世界」の表現>
 この物語がいったい何に意を砕かれているか、それはアリエッティら小人の目線から見た世界を描くことである。小さな小人たちの世界はあくまで我々の世界のミニチュアサイズであり、どこまでいっても私たちの現実世界の延長線上であることは間違いがない。それゆえに小人たちにとって私たちの世界がどう目に映っているのか、そこで暮らすことがどのような生活なのかをきっちり描くということが、本作の重要なモチーフであることは、誰の目にも明らかである。だが小さな小人の目線を描く、あるいは小さくなってしまった人間の目に映る現実世界というモチーフ自体は、決して珍しいものではない。少なくても空想科学の世界では意外に表現されており、挑戦されてきている世界かもしれない。たとえばあるいは稀代のSF映画「ミクロの決死圏」やそのオマージュ作である「ミクロキッズ」、「ウルトラQ」では17話「1/8計画」とか、「ウルトラセブン」31話「悪魔の住む花」、そしてこれらフォロワーであるパロディ作品は数多く存在する。また昆虫や動物もののアニメは目線が低い。「みなしごハッチ」や「みつばちマーヤの冒険」、「ニルスのふしぎな旅」、「スプーンおばさん」。人形アニメ「野ばらの森の物語」やNHKで放送された「川の光」などは、描写として人間世界のミクロを描いてみせることではほぼ本作と同様の作品と言える。そうして考えてみると、「アリエッティ」という作品は、こうした小さな世界を描く作品群の延長線上の作品であり、そうした描写を突き詰めて演出された作品だとも言える。
 たとえば序盤「借り」に行くアリエッティと父がたどる道筋にある釘やカスガイ、庭に落ちているように配置されている植木鉢、自然に生える葉やツタの数々。中盤にふいに訪れる翔とアリエッティの出会いの背後に咲き乱れる花々、アリエッティたちの住む床下の暗い空間など、その精緻を極めた表現はそれまでの「小さな世界」の極北に至る描写と言える。特に極めつけと思われるのは「水」の表現だ。かつて宮崎監督は「カリオストロの城」における「水」の表現にはかなり意を砕いていたが、今回の「水」の表現はかつての等身大の世界の水の表現とはまったく異なる表現に挑戦している。「小さな世界」における「水」は、我々のそれより粘性が高いのである。雨、やたまり水、母親が入れるお茶などに至るまでその流れは粘性が高く表現されている。アリエッティが雨にあいながら、服についた水滴を払い落すシーンがあるが、服にしみ込まずに服の上に水滴となっているあたりの描写は、こうした小さな世界の水の粘性を的確に表現している。もっともかわいらしく表現されたダンゴムシやカマドウマなどは、嫌悪感から遠ざけるためには、キャラクター化するのが常套だろう

 その一方で「小さな世界」の表現や描写は、非常に難しいと思えることが多々発見されるのもこの映画の特長だろう。たとえば物語における重要なアイテムである「角砂糖」のや、ラストシーンにおけるアリエッティの髪どめの大きさなどが代表であるが、ものの大きさの表現が、シーンによってまちまちになってしまう。原因は実際の角砂糖の大きさと小人や人間との対比がスケールとして設定されていないことによる。だがここで問題になるのは、「人間の見た目」というのは果たして統一されているものなのだろうか?という疑問なのだ。例えば小人の目線で見た角砂糖は、果たして人間にとって同じサイズに見えるのか? もしかしたら「ああ、こんな大きさなのか」という腑に落ちる大きさというのは、人それぞれであり、その大きさの認識はあくまでも個人の主観に由来する。とすれば、客観的な大きさの尺度をもって画面を設定しても、それはアリエッティや翔の目線で見た物の大きさとしては表現しきれないということではないのか。同じシーンでも大きさがまちまちになる物の大きさというのは、アリエッティら小人と翔たち人間の目線が交錯しているために起こる目の錯覚であり、物の大きさの基準を画面内にあえて設けないことが、物を扱う際に感じるキャラクターおよび観客それぞれの主観と客観のどちらにも腑に落ちる方法であると見ることができる。とはいえ、こうした感覚はファンタジーや童話的な世界観の本作では有効に働くが、その一方で物の大きさこそが基準となる「SF」の世界では、その表現を統一する必要性に駆られる一方で、集団作業であるアニメ制作という現場の中で、こうしたサイズの統一という一貫性のある作業が難しいことも一面の事実だろう。本作の持つ表現上の難しさとはここにあるのではないか。

<それは果たして恋なのか?>
 本作をTVで視聴していた時に、CM前の提供ロールの際に、画面左側に文字が示され、「淡い恋」という表現がされていた。実は筆者にとってはこの「淡い恋」というのがあまりにも曖昧すぎていまいち説得力がない言葉に見えたし、公開当時のキャッチコピーにも「淡い恋」という単語がないので不思議に思っていたのだ。さて本作ではこの「淡い恋」が本当に演出されていたのだろうか?

 翔とアリエッティが最初に出会ったのは庭先であるが、この時別に二人が互いを見染めたとは考えられない。だがこの時に翔は小人の存在に気付き、アリエッティは好奇心を最大に刺激される。ここでの翔はあくまで小人への好奇心しかないのである。
その後アリエッティは夜寝ている翔のかたわらに「借り」をしに来ることで翔と出会ってしまう。ここでは翔は小人に出会った興奮から一方的に話しかけるが、アリエッティは取り合わない。ここで翔はアリエッティではない漠然とした「小人」に興味を持ち、小人と出会いたいと願うのであるが、これをして翔の恋心を指摘するのは難しいだろう。
 この後、カラスに襲われるエピソードを経て、翔のアプローチは一足飛びに小人への施しと出会いを期待して、排気孔に角砂糖を置いたり、ドールハウスの台所を小人たちにプレゼントしたりする。小人がアリエッティという少女の姿をしていたことを認識し始めたことを機に、翔は一方的にアリエッティを意識し始める。それは翔にとってはあまりにも些細な気持ちの変化であり、初めての経験だったのではないだろうか。他方アリエッティのほうも、それまで忌み嫌っていた人間にやさしくされたことにより、気持ちに変化が生じてくるのを止められない。一度ならず人間との共存を考えたりもしただろう。だがそれはこれまでの同族のたどった運命を知り、翔の存在との間で葛藤する。

 ところがここで事態は一変する。翔の行動がきっかけとなって、小人たちはいままでの生活のすべてを捨てて、家をでるというのである。これはアリエッティにとって物語当初の初めての「借り」とはベクトルの異なる最大の変化となる。しかも生まれて14年間変わることのなかった生活が最大の変化の時を迎えようとしているのである。そしてこの変化に戸惑ったアリエッティは、ついに直接の原因である翔と直接対面して抗議することで、この変化に対して抵抗しようと試みるのである。一方の翔はといえば、アリエッティから示された衝撃の事実に打ちのめされるかと思いきや、アリエッティたち小人一族を絶滅した動物たちと断じて「運命」だと言ってのける。

 さてこの翔の発言の真意がどこらへんにあるのかを考えてみた時、自分の病気やこれまでの翔自身の人生観の表れとして後ろ向きな性格の表れという見方もあるだろう。だがそうだと断定すると、ラストシーンでの翔とアリエッティの別れのシーンにおけるアリエッティの涙のわけが理解できないのである。そこで「淡い恋」というものが仮にあるとして、その始まりが二人の出会いのシーンには盛り込めないのであれば、「淡い恋」の原典はカラスに襲われたシーンと、この庭での直接会話のシーンではないか。その証拠に、翔のアリエッティへの小人一族の命運の話は、アリエッティを泣かせるためにしたことであり、何もことさら絶滅危惧種の話をしたかったわけではない。とすれば、翔がしたかったのは好きな女の子をいじめたかったという、わかりやすい子供の反応だったのではないかと想像できる。そして互いの信頼が生まれかけていたあとの庭での直接会話で男の子がいじめて女の子を泣かせる。これをもって二人が「幼い」ということは明らかだ。だからこそ信頼→信頼の喪失→どうしようもなく依頼→冒険→信頼の回復という流れが生まれ、その結果としてラストシーンでの涙が重さをもって見るものに感じられるのではないか。その意味ではたしかに「淡い恋」はきちんと演出されていたのである。

 ひと夏のささやかな恋のエピソードはしかし、二人をちょっとだけ成長させる。アリエッティは新しい生活の場を求める家族とともに旅立ち、しかも新しい仲間に出会うことで彼女の生活はまたも一変するだろう。ラストシーンの涙から一転してスピラーからもらった果実を口にし、川の中の鯉のうろこのきらめきをうれしげに眺める彼女には、すでに新しい世界への期待しかないだろう。翔にしたところで手術の予定は変わらないものの、「君は僕の心臓の一部」だといいきった翔にとって、アリエッティは忘れがたい少女になった。しかも相手は小人である。きっと翔は一生忘れ得ぬ特別な女性と、わずか12歳で出会ったのである。う~ん、彼のその後の恋愛観が心配である(笑)。

 ジブリ作品というのはあまりにも「恋」と呼ぶには淡いものが多い。特にこの「淡い恋」が物語の中心にない物語であるためか、添え物としてのサイドストーリー的な扱いでありながら、少年と少女の関係性が重要なキーとなっている作品が多い。ここで思い出してほしいのであるが、千とハクは恋だったろうか? ハウルとソフィーは? ポニョと宗介は? 一方で「耳をすませば」や「海がきこえる」などの作品でははっきりと恋愛感情が物語の中心にある作品群もあるが、それはあくまでジブリ作品としては主流ではなく傍流だ。だがこれらの「淡い恋」を演じる二人は、互いに異世界の住人同士であり、互いの世界観は決して相いれることがない。とすればその「淡い恋」そのものは決して成就できるはずのない想いなのだ。観客は「淡い恋」の中にそうした絶対的に越えられない境界線を感じるが故に、どうしたって感情を揺り動かされることになる。

 さて2012年現在、昨年の「コクリコ坂から」以降の新作の話題は聞こえてこない。おそらくは来年あるいは2年後あたりを目処に、現在企画進行中のことだろう。新人監督の起用に吾朗氏とくれば、ひさびさに御大・宮崎駿氏の登板の可能性もあるだろう。できることならかつてのようなSF性の高い作品が見たいものであるが、それはまた時代の要請とはかけ離れているのだろうか。

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コメント

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No title

私でも「感動できる」初期の作品・・・「カリオストロ」「ナウシカ」「ラピュタ」あたりは良かったですね。最近の宮崎アニメは、「何を言わんとしてるのか理解できない」作品が多いですwww
今回の「アリエッティ」にしても、「だから?」という感で物語は終わりました。このあたり、とある日本映画の巨匠作品と似てる気がします。モノクロ時代の作品群はよかったですけど、カラー作品以降は「独りよがり」で「意味不明」な作品ばかりだった気がしますw
今宵は少し、ワインを飲みすぎまして・・・へんなコメントで申し訳ありませんでした。

明けましておめでとうございます

今年もよろしくお願いいたします。

私は映画館で見てきました。
この映画は明らかに、翔とアリエッティ二人の物語にも関わらず
二人の関係性を描ききってないところに問題があると思います。
ぶっちゃけて言えば「友情」か「初恋」の物語にするべきだったと思います。
そのためお手伝いさんが悪目立ちをしたりと
余計なことが目立って仕方なかったです。
小人の世界も、ただカメラで拡大し、目線を下げた世界なだけで
「バグズライフ」を見たときのような、発見による快感はありませんでした。

それにしても近藤勝也氏は監督をしないのでしょうか?
ラピュタの頃からジブリ作品に参加し、作画監督を何度も務めている方なので
やってもおかしくないとは思うのですが・・・。

No title

シャオティエンさま

 こちらこそ今年もよろしくお願いいたします。
 
 まあ、亡くなった巨匠の映画に関してはコメントを控えますが(笑)、近年のジブリ作品は明確に物語性やメッセージを込める作風を否定しています。善し悪しではなくそういうものだと理解していますが、ジブリ作品は基本的にアニメーションとして絵で主張する集団だとすれば、明確なメッセージを込める以上に絵から観客が読み取る何かを優先しているつくりなのかなと思っています。

 ときおりお酒の勢いでコメントを頂戴するかたがいらっしゃいますが、理由はどうあれ、コメントは大歓迎です!

No title

たかのゆきさま

 今年もよろしくお願いいたします。
 近藤勝也氏は現在のところジブリの作画がしらのような役職をされているようで、こういう方はなかなか監督にはなりにくいようですね。一見シンプルに見えるジブリ絵は、こういう方々によって支えられており、逆に監督職には就かせてもらえないのではないかと思われます。

 さて「友情」か「初恋」のどちらかにすべきだという発想はよくわかります。私も本文ではむしろはっきりさせたほうがいいという方向性の論調で書いています。
 が、そのように描かない理由もまた明確で、メッセージを込めないことで受け取り側の観客にすべての判断をゆだねたというのが真相ではないかと思っています。「もののけ姫」にあからさまに込めたメッセージが日本人に受け入れられなかった状況は、宮崎監督にそれを否定させたように思います。

 とはいえ、やはり明確にメッセージを打ち出した作品の方が観客が受け取りやすく、その一方で説教臭くなる難点もあります。そのバランスこそ「映画」だと思うのですが、現在の日本映画ではなかなかそのバランス感覚が理解されないようで、エンタメと文学的な作品が二極化している感じに思います。難しいですね。
プロフィール

波のまにまに☆

Author:波のまにまに☆
東京都出身
43歳になりました 
妻一人

戦隊シリーズをこよなく
愛する、男オタ。
特撮は主食、
アニメは副菜。
後期必殺を好み、
スタートレックは
ピカード艦長が大好物。
Twitter再開しました!

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