今、「ウルトラマン」が語られない理由を考える

 過日、ツイッターを見るともなしに眺めていると、とあるブログの記事を紹介するリツイートに行き当たった。そのリツイートが紹介しているのは以下のブログの記事だ。

『ウルトラマン』の文学的研究 神谷和宏のブログ
「なぜ『ウルトラマン』は語られないか」


まずはこのブログの主である「神谷和宏」氏をご存じだろうか? 今年に入って週刊誌(たしか週刊朝日だったと思います)で中学校の授業で「ウルトラマン」を取り上げたという内容の記事が載り、同内容がNHKのニュースでも取り上げられた。その後「ウルトラマンと「正義」の話をしよう」(朝日新聞出版)を上梓。現在も国語教諭をされながら、ウルトラシリーズを中心とした評論を展開しており、この7月にも「ウルトラマンは現代日本を救えるか」(朝日新聞出版)を発刊されたばかりだ。
そんな氏がご自身のブログにおいて、「ウルトラマン」は語られていないという。ブログの記事によればいくつかの過去の文献を示した上で、「ユリイカ」増刊号における「平成仮面ライダー」に関する華々しい評論を見せつけられる一方で、あまりにも作品としての「ウルトラマン」は語られていないというのである。それは一面の事実だろうが、ではなぜ「ウルトラマン」は語られないのだろうか? 今回は筆者なりにこの問いを考えてみたい。


2012.08.29追記
 この記事につきまして、神谷先生のブログにお知らせをしたところ、どうやら私、問題自体を勘違いしていたようで。神谷先生の問題提起は「ウルトラシリーズ」そのものが評論の俎上に上がらない事であったようです。となると本論はあまりにも神谷先生の問題提起とはかけ離れている気がしておりますが、ま、これはこれで。


ウルトラマンは現代日本を救えるかウルトラマンは現代日本を救えるか
(2012/06/07)
神谷和宏

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<文献の整理から>
 まずは本当に語られていないのかどうかを検証しておきたい。神谷氏のブログにて示されている作品は以下の通り。

「怪獣学・入門!」(1992,宝島社)
「ヒーローの修辞学」(1993,平松洋)
「ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義」(1992,佐藤健志)
「怪獣神話論」(1998,八本正幸)
「怪獣使いと少年」(1993,切通理作)
「ウルトラマン幻想譜(1998,原田実)

大変申し訳ないのだが「ヒーローの修辞学」と「ウルトラマン幻想譜」については、我が蔵書に見つけられず、読んではいないことをお断りしておく。だが少なくても筆者の蔵書で確認した文献での「ウルトラマン」の扱いは、たしかに神谷氏を納得させる物ではなかっただろう。神谷氏がブログで指摘しているように、作品論から「ウルトラマン」の物語から何をか読み取り、それぞれが思い通りに述べているものではある。当ブログではウルトラシリーズを語るときに引用する頻度の高い「怪獣使いと少年」では、シリーズを支えた脚本家にスポットを当て、ウルトラシリーズ執筆と前後して書かれた他作品の脚本にも触れた上で、シリーズで各々の脚本家の狙いを、インタビューと合わせて探っていく大胆なルポルタージュであるが、作品論やそこから発展する評論とは無縁である。またこちらも当ブログではいろいろ(笑)な意味でお世話になっている「ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義」においては、沖縄の人であった脚本家・金城哲夫氏の生き様を、当時の沖縄の行く末と重ね合わせることで、ウルトラマンで金城氏が目指した「博愛主義的国際主義」が挫折していく過程であったと断じている。

 実は他にも魅力的な文献があるのでここで紹介しておこうと思う。

・「ウルトラマン対仮面ライダー」(1993,池田憲章+高橋信之)
 日本特撮界の2大巨頭である2作品をとりあげ、その作品としての魅力を余すところなく伝えた文献。カラー写真はないものの、どちらもモノクロ写真をふんだんに取り入れながらも、作品論や制作裏話、その作品的な魅力を伝えている。ウルトラマンの部については池田憲章氏が執筆を担当しており、その筆致は懐かしのアニメック誌での「SFヒーロー列伝」に近くて楽しい。

・「マンガ・特撮ヒーローの倫理学」(2006,諫山陽太郎)
 本作はあくまでアニメや特撮作品、マンガを題材として、日本における物語やキャラクターにみる「倫理」について語っている。ウルトラマンに関しては第2章にて触れており、「人」と「神」の関係性について、ウルトラマンと仮面ライダーではアプローチの仕方が異なることを指摘している。あとがきによればそもそも「エヴァ論」として書かれる予定のものであったらしいが、そこに到達するために前提となっている種々の作品について、その考え方に触れておく必要があったために、作者のブログの記事を編集した本とのこと。

・「小説ウルトラマン」(2002,金城哲夫)
 先述の金城哲夫が、「ウルトラマン」テレビ放映時に執筆した「怪獣絵物語ウルトラマン」の文章部分と、「円谷英二物語」などを組み合わせて発刊された文庫。先の「絵物語」の中で、怪獣が暴れている中でウルトラマンになるために現場から逃げるように消えるハヤタ隊員をあげつらうシーンなどが散見され、牧歌的ではない「ウルトラマン」の別の側面が垣間見える貴重な資料となっている。

<原初であるが故に・・・>
 さてここからはウルトラマンが語られない理由を考えてきたい。筆者にとってはいくつかの理由が思い当たるので、それぞれ述べてみたい。まず第1に思いついた理由は、「ウルトラシリーズの最初の作品だった」ことだ。シリーズの最初の作品は「ウルトラQ」ではないかという指摘もあるだろうが、物語のエンドとしてウルトラマンという超人の存在が物語を大きく左右する「ウルトラマン」以降のシリーズと「ウルトラQ」では、その性格が異なると考えた。「ウルトラQ」はまだ「ゴジラ」(1954)の影響下にあり、巨大な超人が事件を解決する性格のものではない。その意味においては「ウルトラマン」はその後のシリーズに対する最初の作品であり、原初である。これはなにも時系列という意味だけではない。「ウルトラマン」以後に登場したシリーズ作品数は、主要なTV版としてのタイトルだけ考えても13タイトルにもなる。これらの作品は、「ウルトラマン」に登場したいくつかの要素を拡大再生産して作られた作品だと考えれば、「ウルトラマン」以降の作品はすべてそのプロトタイプを「ウルトラマン」に求められてしまう。例えば「セブン」における異星人の地球侵略というモチーフは、「ウルトラマン」のメフィラス星人やザラブ星人のエピソードに求められるし、「ウルトラマンA」では怪獣を超える超獣が登場するが、人為的に作られた怪獣である意匠は、ジラースが登場するエピソードに求めることができる。そもそも最初に作られた「ウルトラマン」という作品が、侵略宇宙人や大自然の驚異としての怪獣、明確な悪意としての怪獣など、さまざまな要素を含む作品群として登場した。それは当時作品に携わったスタッフの想像力と技術のたまものであり、あらん限りのアイデアを持ち込んで作られているからだ。それゆえに「ウルトラマン」はシリーズの原初でありながら包括的であり、シリーズのさまざまな比較対象は「ウルトラマン」に求められることになる。とはいえ、常に結論的に「ウルトラマン」が持ち出されるには、あまりにも知られた存在だ。それ故に「ウルトラマン」は語られにくいのではないか?

<怪獣のアイデンティティ>
 そもそも「ウルトラマン」という作品の主役は誰かと問われれば、筆者は胸をはって「ウルトラマン」と応えるだろう。だがよくよく考えてみると、物語を動かすのはウルトラマンだろうか? 実のところウルトラシリーズの物語を大きく動かす要因のほとんどは「怪獣」が握っている。なんらかの理由で怪獣が人間社会を襲い、それを防衛するために防衛チームが出撃し、彼らの奮闘むなしくどうにもならない場合には、ウルトラマンが颯爽と登場して怪獣を倒して事件は解決する。こうした物語のきっかけを作るのは「怪獣」やそれらが引き起こす「怪奇な事件」なのである。
 昨今のウルトラシリーズでは顕著ではあるが、この「怪獣」の存在感が稀薄な印象がある。筆者のように第2次怪獣ブームのまっただ中にいた30代後半から40代の人間にとっては、「ウルトラマンタロウ」あたりまでの怪獣・宇宙人には概ね記憶に残っているが、「ウルトラマン80」以降、特に平成ウルトラマンシリーズである「ティガ」「ダイナ」「ガイア」などの怪獣の場合、あまり記憶にひっかかっているものは少ない。年齢が下がるとまた記憶の構成が異なるだろうから、異論を認めるにやぶさかではないが、やはり近年の怪獣、特に「ネクサス」や「マックス」「メビウス」などに登場した新怪獣には、「ウルトラマン」に登場した怪獣ほどのインパクトはない。それはなぜかと問われれば、物語が怪獣を必要としなくなったからだと思わざるを得ない。怪獣ではなく人間の側の問題に焦点をあてて物語を構築することによって、人間を魅力的に描くようになった一方、お飾りと成り下がった怪獣はどんどん魅力をなくしていく。また明確な悪意によって怪獣が登場する場合、特に宇宙人に操られたりする場合には怪獣の魅力がなくなることが多い。それは「ウルトラセブン」に登場したガッツ星人の操るアロンという怪獣などは、顕著な例と言える。そしてまた、怪獣自身が大自然の驚異の現し身ではなくなった事もまた、怪獣が魅力を喪失していった事情でもある。このことについては本ブログでも一度取り上げたことがある(平成ガメラと“怪獣”の喪失)。何者か見えざる存在によって生み出された存在としての「怪獣」が、大自然の驚異としての怪獣のアイデンティティを喪失させたのである。昨今のウルトラシリーズでは、むしろ大自然の驚異ではなくなった怪獣の存在が退行し、むしろ悪意の主であったり物語の主体である人間側のドラマに注目が集まるようになったために、怪獣がまだ大自然の驚異の現し身であった時代の作品である「ウルトラマン」は顧みられなくなったのではないだろうか?

<今、語られるべき時代>
 ここで先述の文献の発行年について見てみたい。1992年~2006年と範囲は広いが、その多くは90年代に偏っている。作品論ではなかったために触れてはいなかったが、いわゆる「謎本」の走りとなる「ウルトラマン研究序説」(サーフライダー21,中経出版)の発行年は1991年だ。また「ウルトラマン」が対象ではなかったため外したが、辰巳出版が発行した第2期ウルトラシリーズの再評価を行った「帰ってきた『帰ってきたウルトラマン』」をはじめとする一連の書籍の発行年は1999年以降となる。特撮ムックの老舗となる「宇宙船」編集部による「ウルトラマン白書」の第4版の発行は1995年だ。いずれにしても我々が手にできうる文献の多くは、90年代に入ってからのものである。ではそれ以前はどうだったかといえば、講談社X文庫から発行された「メイキング・オブ・円谷ヒーロー」だと1987年の発行だ。アニメ・特撮ファンにとってはバイブルとも言えるケイブンシャの大百科シリーズは70年代から80年代の子供たちの間を席巻した。特に「ウルトラマン大百科」は多くの子供たちがそれこそすり切れるまで読み込んできたし、年度ごとに増補改訂版が出ていた「全怪獣・怪人大百科」シリーズは、ヒーローに注目が集まった時代に敵役にスポットをあて、消費されるだけだった怪獣たちを記憶にとどめたいと思う人々の思いの塊のような書籍ではあったが、作品論とは言いがたい。そんな状況下で作品論にふれた書籍を探そうと思えば、商業誌では宇宙船編集部による「ファンタスティック・コレクション」シリーズであり、あるいは「怪獣倶楽部」や「PUFF」などの同人誌だったろう。これが70年代中頃から80年代初頭あたりだろうか。時折しも第2次怪獣ブームのまっただ中のことである。

 こうして遡って考えてみると、今年43歳である筆者にとって、商業誌という舞台の上で「ウルトラマン」が積極的に語られた時代は、どうやらとうに過ぎ去ってしまっているようなのだ。特にまだ子供であったがゆえに手に入れるどころか書店にあることに気づきもしなかったころ、「ウルトラマン」は「ファンタスティック・コレクション」や、それこそ同人誌活動などの上で語られまくっていたのではないか。第2次怪獣ブームの再評価が、時をおいて90年代に盛んに行われたこと、最初に「ウルトラマン」を語った論客の多く(おそらくは中島紳介氏や竹内博氏、池田憲章氏らオタク第一世代)が、現在の商業誌でも執筆を続けていることから、「ウルトラマン」はすでに彼らが過去に語り尽くした作品だったのかもしれない。ましてや未だにシリーズの新作が作られており、多くの読者が新しい作品に対する記事を求めていることを考えれば、旧作を取り上げる必然性がないではないか。あまつさえ商業誌であればなおさらだ。評論は同時性や即時性が求められることもある。すでに語られてしまった作品が、現在の評論の俎上に上ることは難しいのではないか。

 つまり「ウルトラマン」という作品は、その魅力も作品論も、おそらくは70年代中頃から80年代初頭までの間に、当時の論客によって語り尽くされていたために、新作が相次いでいる現在では語られにくい作品となっているというところが、今「ウルトラマン」が語られない事情なのではないだろうか?
 だがここでちょっと立ち止まって考えてほしい。作品は現在もDVDや再放送、新作に登場するウルトラマン自身などもあり、「ウルトラマン」という作品は過去の作品ではなく現在も「現役」なのだ。その一方でかつての「ウルトラマン」評のほとんどは、現在の若い人の目には触れる機会はない。それこそいっそ昔の「怪獣倶楽部」やら「PUFF」、「ファンコレ」あたりを復刻でもしない限り、現在を生きている私たちの目には入らない。その意味では過去の論評の多くは死蔵されているともいえる。そういうことであれば、今こそ現代の論客が、現代の視点で「ウルトラマン」を語るべきなのだ。「ウルトラQ」がカラー化されて新しいファンを開拓している事を考えれば、「ウルトラマン」評もまた新しい世代を取り込むべく、新しい論評が待たれているということではないだろうか。その嚆矢として、神谷氏の論評が新しいファンを開拓し、新しい論評を切り開く契機となること心から期待する。あ、ついでに書いておくと、神谷氏が執筆した先の2冊の本の中でも、「ウルトラマン」を扱った項目は、やはりというかなんというか・・・・・ちょっと少ない(微笑 多様な話題を扱っていらっしゃるので、構成上いたしかたないのだが)。これからの神谷氏の「ウルトラマン」評を心待ちにしたい。

ウルトラマンと「正義」の話をしようウルトラマンと「正義」の話をしよう
(2011/07/07)
神谷和宏

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No title

人間が作り上げた世界や常識を、「怪獣」はそこにいるだけでも、あっさりひっくり返してしまったり。人々が平穏な日常と思っていたものが、「宇宙人」がいつの間にか違うものに塗り替えていたり。
そして人間の力の及ぶ範囲を超えた脅威を封じに、神のような銀色の巨人がやってくる。
その神が何を考えているのか、人間にはわからない…。
「ウルトラシリーズ」は、人間の起こす犯罪や社会の問題点なんかとは間逆の方向に進むものだったんじゃないかなと思ったりします。
なんかこの世のちんまい問題なんかとはかけ離れた驚異や恐怖を
新しいウルトラシリーズ見せてもらいたいですね。

No title

うめさん
 コメントありがとうございます。
 コメントの前半、特に日常からかけ離れた世界観については、まさに「ウルトラQ」の不条理な世界観だと思います。逆に後半の「人間社会」や「人間のゆがみ」、「隣接する恐怖」については「怪奇大作戦」や「恐怖劇場アンバランス」などが顕著な例でしょう。つまり円谷の制作陣は、どちらもカバーしていたことになります。むしろ「ウルトラマン」を作っていたときの方が、精一杯想像力を働かせて、これまでにない世界観を構築する一方で、物語自体はあまり地面から離れないように、現実に直結できるようなテーマ性を織り込んでいたように思います。

 円谷ではその両極端を作品とした。それ故に日常のちんまい問題とはかけ離れているとおっしゃいますが、確かにその問題の大小の差こそが、ウルトラシリーズが評論の俎上に上がらない理由かもしれません。むしろ「平成仮面ライダー」のような等身大の作品の方が、人間のちんまい問題に即しているような気がします。




プロフィール

波のまにまに☆

Author:波のまにまに☆
東京都出身
43歳になりました 
妻一人

戦隊シリーズをこよなく
愛する、男オタ。
特撮は主食、
アニメは副菜。
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スタートレックは
ピカード艦長が大好物。
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