映画「スーパーマン」シリーズ~ファンタジーとしての正義~

 前回まで007シリーズを見ていたのも手伝ってか、このところシリーズで作られている作品を見る機会が増えた。もちろんその作品単体でも見ているけれど、007シリーズみたいに箱で出てくれるのを、安価で買えると、ちょっと得した気分になる。以前にも「エイリアン」シリーズおよびプロメテウスを扱った時にも思ったのだが、こうやってシリーズを俯瞰すると、フォーマットとして作り手が作り上げてきた部分と、作り手が故意にフォーマットを壊した部分の差異、引き継いだものと切り捨てたもの、連続性とリセットといった比較を一気に検証できることは、やはり映画鑑賞上の面白さのポイントが見えてくる。3部作を一続きの作品として作られている「マトリックス」シリーズや「バック・トゥ・ザ・フーチャー」シリーズも面白いのだが、作品の売り上げや人気、時勢なども加味して断続的に作られたシリーズには、独特の味わいが際立って見えてくる。代わりに俯瞰するだけでは見えてこない、作品単体としての面白さは後回しになる。だがこうした「俯瞰」の面白さというのは、「ガンダム」や「マクロス」といったいくつもの作品群を総括的に考える場合にも、比較対象のポイントを浮き彫りにする指標になる。何も好き嫌いなんていう安易な言葉を選ばないでも、ポイントさえ明確に探し出せれば、どこが好きで何が嫌いか?という明確な答えを導き出してくれる。今回もそんな俯瞰の面白さを存分に堪能できる作品を選んでみた。それが映画「スーパーマン」シリーズだ。

<ものすごい概略の作品史>
 アメリカの「Action comics #1」(1938)にて誌上デビュー。高度な文明を誇っていたクリプトン星の崩壊のタイミングで脱出したクリプトン星人の赤ん坊は、地球のアメリカ人夫婦に拾われて成人する。やがて自身の出自となすべきことを得た青年クラーク・ケントは、その力を行使し、「スーパーマン」となってアメリカの正義の象徴となっていく物語だ。

 映像作品としての出自も早く、1941年にはフライッシャー兄弟によるカラーアニメ作品が製作されている。ルパン三世(新)の最終話にて、宮崎駿がもののみごとにパクって見せたロボット・ラムダの動きは、この作品の1編が元ネタになっている。1948年に連続活劇映画が1本作られている。1951年に映画「スーパーマンと地底人」が作られると、スーパーマンを演じる役者をそのままに1952年にテレビドラマ化される。日本でおなじみのアメリカドラマは、この1952年から58年までアメリカで放送していたものの吹き替え版で、日本では1956年から放送されていたそうだ。その間、アニメ作品のスーパーマンもあるし、

 そして20年の時を経て、1978年に公開された「スーパーマン」によって、再び日本でも人気を博すことになる。このシリーズは1987年の「スーパーマンIV 最強の敵」まで製作されたが、3,4作目の成績不振によってシリーズは凍結される。その後もTVドラマやアニメなどが製作されており、その人気は衰えを知らない。そしてかつての映画シリーズの後日談となるべくして製作されたのが2006年に公開された「スーパーマン・リターンズ」だ。そして近年、「アイアンマン」や「キャプテン・アメリカ」といったマーベル社のコミックヒーローがシリーズ化する中、スーパーマンにも再びスポットが当たる。2013年「マン・オブ・スティール」がそれであり、さらには2016年には「バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生」にて、同じDCコミックスの看板ヒーロー・バットマンと対決する内容になっている。ざっくりとその映像作品史を振り返っては見たものの、あまりにも作品数が多いことは、やはり人気のあるコンテンツだということだろう。日本ではバットマンやスパイダーマンに人気が集中しそうだが、アメリカではやはりキャプテン・アメリカやスーパーマンの人気は根強いと感じさせてくれる。

 なお今回扱うのは以下の作品。

スーパーマン(1978)
スーパーマンII/冒険篇(1981)
スーパーマンIII/電子の要塞(1983)
スーパーマンIV/最強の敵(1987)
スーパーマン・リターンズ(2006)
マン・オブ・スティール(2013)
バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生(2016)

<ファンタジーと冒険と>
 筆者がまだ10歳ごろのこと。アメリカのヒーローにスーパーマンというのがいることは知っていても、実際に動いているのを見たことはなかった時代。1977年に大ヒットを飛ばした映画「スターウォーズ」同様に、コカ・コーラやマクドナルドなど、協賛する会社はこぞってアイテムを作り、毎日のようにCMがTVで放送された。あらゆる意味でヒットが確実であった作品でもある。1978年にクリストファー・リーヴの主演で公開された映画「スーパーマン」は、筆者が最初に目にしたスーパーマンでもある。まあそうはいってもまだ自由に映画を見ることができない小学生だった筆者は、公開当時映画館で見ることがかなわず、本作を見たのは後年の地上波放送でのことだ。

 アメコミを知ることもなく、調べるすべもなかった小学生の筆者は、スーパーマンの出自を映画冒頭で見てまず驚いた。日本のあらゆるヒーローに出自はあれど、スーパーマンのような「いて当たり前」なヒーローにすら、きちんと出自があったことにまず度肝を抜かされたのだ。悲しいまでに美しいクリスタルと、その輝きを主張する白光まばゆい星・クリプトン星が、崩壊の危機に瀕している。反逆の罪に問われたゾッド将軍ら3人の軍人は、裁判にかけられて1枚の鏡に幽閉される刑を受ける。この一連のシーンですら、ただただ美しく、そして不可思議なシーンが連続する。当時の特撮技術の粋を凝らして撮影されたシーンに目を奪われる。クリプトンの科学者たちは、まるで自分たちの星の崩壊を、ないものとして語り合い、崩壊を予言した科学者ジョー・エルの口を封じる。だがジョー・エルはやっと生まれた一人息子のカル・エルをカプセルに乗せて星から脱出させる。クリプトン星は予言通り崩壊し、カル・エルを乗せたカプセルは一路地球へと向かい、隕石となって地球はアメリカの大規模小麦畑に落下する。その現場に居合わせた老夫婦に拾われたカル・エルは、クラーク・ケントとして、自身の体に秘められた力に悩まされながらも成長していく。そして成人したケントは、記憶媒体であるクリスタルを手に、一人北極へと赴き、クリスタルの力で築いた「孤独の要塞」の中ですべてを学ぶ。そして自身の体に宿る力の意味を正義に見出すことで、スーパーマンとなって人々を護る戦いを開始する。

 ここまでが物語の枕ではあるが、最重要部分である上に、実に時間をかけて丁寧に作られている。力ゆえに他人から疎外される悲しみや孤独、耐えきれなくなって走り出す鬱屈した想いを吐き出すような疾走感は、「スターウォーズ」序盤の夕日を見つめるルークと似たシチュエーションだったかもしれない。後年、「ヤング・スーパーマン」というドラマが製作されているそうだが、そのあたりをどう描いていたのかは、知る由もない。だが少なくとも、ルークに共感した多くの映画ファンは、同様にスーパーマンの子供時代にも、同じ感傷を持った可能性はある。

 クリプトン星が崩壊する件で、筆者がいまだに理解しきれていない点がある。クリプトン人ともあろう有能な人種の人々が、どうして母星の崩壊をみすみす見過ごしてきたのだろうか? しかもあろうことか崩壊を予言したジョー・エルの口封じまでして、他のクリプトンの一般人まで巻き込んで、殉死させているのだ。
たとえば「宇宙戦士バルディオス」(1981)ではS-1星人が、自身の母星が崩壊によって、移住を目的として地球に侵略してくる話で、侵略という手段を選ぶために、軍部が科学者を惨殺している。そのどさくさの中で主人公マリンとヒロイン・アフロディアは不幸な出会いの下、決して成就することのない悲恋へと向かっていく。しかもS-1星とは未来の地球であったというオチまでつくにいたり、その悲劇の引き金を引いたのは、侵略を企図して地球に来たS-1星の軍部であるという、悲劇の3段論法なのだ。
規模は違うが映画「日本沈没」(1973)でも、日本の国土崩壊を予言した科学者は学会や政府から非難される。だが進行する事態を鑑みて、実行された計画に沿って、日本人の移住計画によって、日本人は非難に成功する。だがそれでも日本は沈没してしまうのだ。こういう作品を見るにつけ、優秀であるべきクリプトンの人々は、どうして殉死の道を選んだのか?

 これは筆者の勝手な解釈でしかないのだが、この時のクリプトン人は、星の崩壊の原因を作った人類として、すべてを受け入れようとしていたのかもしれないと。惑星の表層的な環境の改変が人類の手によるものであったとしても、惑星が崩壊するのはそれとはまったく関係ないかもしれない。けれど、自分たち人類とのその文明を育んだ星にしがみついて生きるしかないと悟ったのがクリプトンの首脳陣だとしたら、そこから脱出を図るのは、科学者や軍部の考えそうなことで、このあたりの想像できる範囲の確執は、「マン・オブ・スティール」に生かされている。行き過ぎた文明、発達した科学レベルを併せ持つクリプトンの人々は、星とともに滅ぶこともまた自分たちのテーゼとして、なぜか受け入れてしまったからとしか思えないのだ。あるいはある種の諦観こそが、文明が発達した星の人々の基本理念とか。いや、むしろ発達しすぎた科学技術によって長命となったクリプトン人の自殺願望って、これもないか。やっぱりわからんw

 さてすくすくと成長し青年となったケント青年は、北極に孤独の要塞を築き上げ、父ジョー・エルの残した記憶媒体を介してあらゆる知識を学び、文化文明を知る。その時、やはりケントはどうして崩壊の危機に瀕したクリプトンの人々は、脱出する方法を模索しなかったのか?という命題に悩まされたに違いない。もちろんジョー・エルはその答えも用意していたと思われるが、お願いだから教えてほしいものだ。そしてついに我々がよく知るスーパーマンとしての活躍と相成ることになる。

 職場の同僚ロイス・レインの救出劇を皮切りに、犯罪を未然に防ぎ、危険な大事故から人々を救う八面六臂の大活躍を見せるスーパーマン。その活躍を快く思わない人物がいた。スーパーマンの宿敵レックス・ルーサーだ。ルイスの独占インタビューによってスーパーマンの実情を調べ始めたレックスは、スーパーマンの弱点がクリプトナイトであることを知る。土地がすべてと言い切るルーサーの言いようもいいが、それゆえに立案された彼の計画は活断層であるアメリカ西海岸付近を縦断する、サンアンドレアス断層に核弾頭を打ち込むことで、カルフォルニアを水没させる。そしてカルフォルニアの東側にあるルーサーが購入した広大な土地をもって商売し、莫大な利益を上げることにある。地質屋さんのはしくれとしては、まさしく悪意ある計画としか思えない。一度はルーサーによってクリプトナイトによって動きを封じられてしまうスーパーマンであったが、意外にしてマヌケな理由で助けられてしまう。そしてすでに打ち込まれてしまった核弾頭によって過活動状態になった断層を尻目に、各地で起こった事象を解決していくスーパーマン。だが地震の影響で発生した地割れに飲み込まれたロイスは死んでしまう。いかなスーパーマンといえど、万能ではない。そのことを思い知ったスーパーマンであるが、我を忘れたスーパーマンは、地軸を逆回転させて時間を逆に戻し、地球の時間に干渉してまでもロイスを救うのである。

 明確に後日談として製作された「II/冒険編」。実際にはもともと一つの作品であり、脚本上は1つの作品であったものを、あまりに長すぎる故に2分割されたという経緯がある。監督の途中変更などもあり、映画としては難産だった作品だが、後年交代させられた監督によるディレクターズ・カット版もある。先のロイスの死とスーパーマンによる救出劇は、「冒険編」のラストとして考えられていたシーンであったらしく、「冒険編」がなんとなく間延びした作品に感じられたのも、こういう事情によるのかもしれない。

 「冒険編」は前作の冒頭、クリプトン星の崩壊直前の裁判で、幽閉されたゾッド将軍と2人の仲間が、ふとしたことから幽閉が解かれ、地球に飛来するところから物語が動き始める。仕事上の同僚ではなく一人の女性としてロイスを愛し始めていたスーパーマンことクラーク・ケントは、自分の出自を明かし、スーパーマンとしての力を失ってまでロイスへの愛に殉じようとする。ところが幽閉を解かれたゾッドたちがやってきて、アメリカを蹂躙し始めた。一大決心で力を放棄したスーパーマンではあったが、もう一度その力を欲して「孤独の要塞」へと戻るスーパーマンは、そこで待ち伏せていたルーサーやゾッドたちと戦うことになる。

 第1作目と続く「冒険編」が一続きの物語であるとして見ると、そこに通底しているのは、人間の女性ロイスとスーパーマンのロマンスの部分が突出していることがわかる。ルーサーやゾッドたちといった敵ヴィランを特定しているだけでなく、スーパーマンの力の利用はあくまで人助けに限定されているにも関わらず、ロイスにだけはその力の利用が、あまりにもロマンティックにすぎるのだ。特にスーパーマンとロイスの飛翔シーンはあまりにも長い。しかもまるで「タイタニック」の船の先頭での、あの有名なシーンにも似ている。ということは、この飛翔シーンはこの物語の重要シーンであるということの表れだと思えるのだ。
「冒険編」が同じ能力を持つ者同士のバトルであるものの、あまり凄惨な感じもしないのは、このロマンティックな部分に負うところが大きい。スーパーマンが愛するロイスのためだけにその力を放棄し、人間として暴力に立ち向かうシーンの苦々しさは、暴力につい屈してしまいそうになる市井の人々の最大公約数的な口惜しさだし、その思いゆえに力の使い方の是非を自分自身に問いかけるクラーク・ケントの苦悩は、そのまま見ている観客に共通する悩みでもあるから、共感を呼びやすい。ハリウッドスタイルの堂々たる映画ではあるが、70年代末のアメリカンヒーロー映画は、まだロマンティックでファンタジーあふれる映画だったことがうかがえる。90年代にティム・バートンによって作られた「バットマン」シリーズのようなダーク・ファンタジーとは一線を画す存在ともいえるし、現在の「アベンジャー」シリーズにある問題提起を必須とするに至る前過程にある、いわゆる牧歌的な存在でもある。

<コメディと失なわれゆく敵>
 続く「III/電子の要塞」はわりと純然たるコメディ編で、物語冒頭から「風が吹けば桶屋が儲かる」式に少しずつ被害が大きくなっていく過程を丹念に描いており、そのささやかさっぷりは、「トムとジェリー」やカートゥーンを見慣れた目には、とても微笑ましい。失業を繰り返してきた一人の男が、実は天才的なコンピュータープログラマーであり、その能力を使って些細な犯罪が露見すると、それを社長に見いだされて、気象衛星をつかってコーヒー相場の操作の片棒を担がされる。だがまったく別の事情で、スーパーマンによってその計画は邪魔された。スーパーマンを排除するため、クリプトナイトによる抹殺を測る社長ら悪人たち。だが社長たちの姦計によって、スーパーマンはクリプトナイトによって心の奥底に秘められていた悪意の側面にさいなまれる。その間にスーパーコンピューターによる電子の要塞を築いてスーパーマン抹殺を計画する社長たち。しかし正邪の戦いを制したスーパーによって結局返り討ちとなってしまうという話。途中の挿話は、クラーク・ケントが同窓会に参加することによって再会した、昔のマドンナとのラブ・ロマンスだった。

 さらに製作された「IV/最強の敵」では、強制労働所から脱出したレックス・ルーサーによって誕生した、ニュークリアマンと死闘を繰り広げる物語だ。なお本作の脚本にはスーパーマンを演じたクリストファー・リーヴが原案に加わっており、核廃絶のテーマが前面に出た物語となっている。スーパーマンは国連に働きかけることで、世界中の核兵器の廃絶を提案する。すべての核兵器は宇宙へと廃棄し、それを受け止めたスーパーマンの手によって太陽へと廃棄することになる。ところがその動きに目をつけたレックス・ルーサーは、スーパーマンの遺伝子を手に入れて、手を加えたものを核兵器に取り付ける。こうして誕生したニュークリアマンによってスーパーマンは追いつめられるという筋書きだ。

 ここで面白いのは、レックス・ルーサーが何度スーパーマンに逮捕されて収容所送りになっても、出てくるしぶとさも圧巻であるが、それ以上にルーサーの罪状を暴く裁判に、スーパーマンが登場しないため、その罪科は追及されずじまいである事実である。一方で、最近になって公開された映画「バットマンVSスーパーマン」では、前作「マン・オブ・スティール」の戦いの裏で起こっていた事故に対する責任追及の手がスーパーマンにまで及び、裁判所の勧告によってスーパーマンが裁判所に登場する件がある。こういうツッコミ方は、日本ならばかつて「ウルトラマン研究序説」という書籍の中でウルトラマンの罪を問う話が思い出されそうだが、こういう話を真面目に繰り広げちゃうアメリカ人のメンタリティが、「IV/最強の敵」の時代から下がってきて、ずいぶんと変わったんだなと実感せざるを得ない。

 これら2作品を見ていると、コメディ色を前面に出して、スーパーマンという作品が持っていた陽性の部分を拡大的に広げて見せた作品と、その反省から問題提起をして見せたものの、その問題はあくまでもスーパーマンという超法規的な力によらず、人間の手で解決のために尽力する必要があるという、一見わかりきった結論が空回りした作品だった。明確な敵がいるのに、敵の存在が空虚なのが、この2作品に共通している。それは前2作よりも楽しい娯楽作品を目指して作られていたからかもしれないが、敵の目的が経済操作であったり、お題目としての核廃絶がなんとなく絵空事っぽいことよりも、作り手がスーパーマンというコンテンツの「コミックらしさ」をはき違えたからではないかと疑いたくなってくる。その疑いは、ティム・バートン版「バットマン」によるヴィランの掘り下げとヒーローの存在意義の追及を経て、明確な意図をもってヒーローの戦う理由を問いかける「アベンジャーズ」などの誕生にひと役買っているのではないかと思える節がある。

<存在意義の問われ方>
 「IV/最強の敵」から19年の時を経て、ついに続編が製作された。タイトルは「スーパーマン・リターンズ」。まるで「バットマン・リターンズ」だなとか思っていたら、その物語のスタートは、本当に前シリーズの後日談というのだから、驚いた。しかもその世界では、スーパーマン不要論が蔓延しており、その発端はかつてスーパーマンが愛したロイスの発表した記事なのである。

スーパーマンが崩壊したはずのクリプトン星の痕跡を確認するために地球を離れた後、ロイスは別の男性と結婚寸前まで話が進んでおり、しかも男の子を設けている。ロイスは例の記事を書き上げ、その記事によって賞を受賞することになる。そんな時にスーパーマンは地球に戻ってきたのである。だがレックス・ルーサーはそんな時でも悪事を働く。合法的に他人の遺産を横取りした彼は、スーパーマンが残した孤独の要塞に忍び込み、すべての知識を取得する。そしてルーサーは、孤独の要塞を作った技術を応用し、アメリカ大陸を水没させ、それに代わる新大陸を作ることで大儲けを企んでいた。もちろんスーパーマンへの対策も怠らない。盗み出しておいたクリプトナイトによって、新大陸まで追いかけてきたスーパーマンは窮地に陥る。海に落ちたスーパーマン。誰の目にも勝敗は明らかだった。だがロイスの一子ジェイソンに秘められていた驚異の能力は、スーパーマンを助け出す。ロイスの子供はスーパーマンの遺伝子を受け継いでいたのである。何をか悟ったスーパーマンは、クリプトナイトで弱った体をおして、新大陸を地下から持ち上げて宇宙へと放り投げてしまう。これでルーサーの企みは失敗に終わった。だが大陸生成に利用したクリスタルに含まれていたクリプトナイトによって、スーパーマンはついに力尽き、地球へと落下する。医師たちの懸命の努力もむなしく、スーパーマンは意識を回復しない。だが次の日、彼の姿はベッドから消えていた。そして・・・。

 なぜロイスが「スーパーマン不要論」に至ったのかは、容易に想像がつく。父親不在の状況下で、異星人との間に生まれた子供を育てる母親の心境は、どう考えても余人の想像を絶することだろう。かつてアーサー・C・クラークがスーパーマンとのSEXを想像するエッセイがあったし、「空想科学読本」シリーズにも、ウルトラセブンことモロボシ・ダンとアンヌが、もしも結婚生活を営んでいた場合を空想している。だが孤独を強いられて異星人との間に生まれた子供を育てる母親に比べれば、その想像は呑気というしかないだろう。ロイスにとってはたまさか病弱な子供であったから、その対応はどうしても過保護の方向へと傾くことで、スーパーマンという父親が不在でもなんとか乗り切れたであろうが。そんな状況下で不在の父親をdisらない母親などいるはずもない。つまるところ、ロイスが唱えたスーパーマン不要論とは、あくまでシングルマザーの愚痴であり、本音としてそばにいてほしいことが透けて見えるだけに、観客はいっそ切ない。しかもそんなロイスの心根がわかっているのかいないのか? 劇中のスーパーマンの台詞は本当に真実を語ろうとしない。それどころかジェイソンが自分の息子であることがわかって初めて、ロイスの愛の深さに気づいてさえいる。ヒーローが朴念仁だといっても、ここまでくるといささかあきれてしまうのも道理で。

 それにしてもレックス・ルーサーの悪辣さも、実に筋が通っていていっそ清々しい。1作目から一貫して土地の重要性を示唆していたし、それが祖先からの家訓であるとうそぶくルーサーは、本当に主旨一貫しているのがイイ。しかも孤独の要塞の原理を応用してアメリカ大陸の隣に新大陸を作り、アメリカを水没させてでも新大陸で大儲けを企むというのは、実にルーサーの考えそうなことで、近年のアニメ版「ジャスティスリーグ」あたりで、スーパーマン打倒のためだけに悪事を働くルーサーとは一線を画すというべきか。同時にコメディ要素もきちんと踏襲しているあたりも、こだわりが隅々まで行きわたっていて、続編映画として見た場合の気持ちよさにあふれている。少しだけ残念なのは、スーパーマンやロイス周辺に書き込みが集中したため、話がどうしても小さい感じが否めない。だがファンタジーとしてのヒーロー映画としては、シングルマザーの愚痴から物語が始まっていたとはいえ、スーパーマンとロイスが二人で飛ぶシーンにあふれているロマンスが通底している。その意味ではちゃんとファンタジー寄りのヒーロー映画として完成している作品だ。

<彼の死から学ぶもの>
 さてここからは2010年代のリブートの流れに乗って、DCコミックスがマーベルのドル箱シリーズ「アベンジャーズ」に対抗する形で作られた作品となる。マーベルはアイアンマンとキャプテン・アメリカの二人を軸に、マイティ・ソーやらハルクといった1本立ちできる連中の他にホーク・アイやブラックウィドウといった脇を固める重要なキャラクターを寄せ集めて「アベンジャーズ」を作るが、この映画のために他の作品を先に作っていくという、用意周到っぷりでファンを増やしている。つまり「アベンジャーズ」のワールドにある1本を見ると、他の関係作品も見たくなるという仕掛けなのだ。正直これにはまいった。しかも前3作で完結したはずの「スパイダーマン」までリブートさせて合流させる徹底っぷり。おかげで見逃したつもりの他作品までレンタルで借りてみてしまうありさまで、筆者は完全にアベンジャーズに首までどっぷりつかってしまった。これの対抗馬はDCしかおらんだろ。ってことで、こちらもすでに完結している「バットマン」の「ダークナイト」3部作があるにも関わらず、それは置いておいた上で、「ジャスティスリーグ」につながる伏線を映画化しようという試みのようだ。その最初の取っ掛かりはスーパーマンとなり、製作されたのが「マン・オブ・スティール」となる。

 「マン・オブ・スティール」に関しては、すでに1度書いているので、そちらもご参照ください。とにかく旧シリーズの1作目と2作目「II/冒険編」までが実に簡潔に1本の映画としてまとまっていることも素晴らしいのだが、クリプトン星崩壊の真実として、クリプトン人が繁栄の陰で星のコアに手を付けて資源採掘したが故に崩壊の憂き目にあっているという話は、先に疑問点としてあげていたクリプトン人の諦観の理由に得心が行く内容だった。また謳歌していた繁栄を取り戻すために、植民地としていた惑星への移住と、星を破壊せしめた老人たちの粛清という、ゾッドの謀反の理由もまた納得がいく。

 前に本作について書いた時、スーパーマンが地球を護る理由付けがないことはすでに指摘した。子供の時に父親に力の制限を言い渡され、それが原因で強く主張できない子供に育ったが故に、周囲にいじめられたり、その親たちにまで阻害されたりと、散々な子供時代を送っていたのである。よくもまあグレずに真っ直ぐに育ったものだと感心するが、そんな心のトラウマを抱えて育ったスーパーマンは、やはり地球を護るとか、人類を護るとかいうお題目には素直に理解を示すことができず、悩むのだ。しかも人々の前にあの有名な姿で初お目見えしたときは、地球に侵攻してきたゾッドによる脅迫を受けて、自ら名乗りを上げた時であり、地球人にしてみれば、ああ、そんな奴、いたんか?ぐらいなので、登場のタイミングも遅きに失している。しかも精一杯人々を護るためにゾッドの侵略を退けたスーパーマンは、続く「バットマンVSスーパーマン」にて、その時の破壊によって重症を負った人間によって訴訟まで起こされてしまう。

 この訴訟と裁判のシーンは、かつてのシリーズでレックス・ルーサーがどうしていつも脱獄してしまうのか? 裁判でどうして死刑にならないのか?という答えとして、証人喚問にスーパーマンが立ち会わないからという事情があることが知られているが、そのスーパーマンが裁判に罪人として登場するという皮肉にも程がある演出がなされている。本来人間の文化文明に干渉してはいけないはずの異星人・スーパーマンは、人間を裁く法に干渉するつもりがないから裁判に出廷しないのだが、裁かれる側としては人間の法に従う他はないという矛盾に真正面から取り組んだ映像でもある。

 その重症患者がバットマンことブルース・ウェインの会社の従業員だったため、遠からずスーパーマンはバットマンの敵になるという展開。ところがこの重傷を負った男が、後にスーパーマンの宿敵となるレックス・ルーサーの生きのかかった男であったがために、この対決はいやが上にも憎しみがエスカレートしてしまい、ブルースはクリプトナイトを引っ張り出して、スーパーマンを倒す秘策の槍を作るわ、超法規的手段を用いてゾッドの遺体を手に入れたルーサーは、ゾッドの体を利用し、クリプトン星の技術まで手に入れて、ドゥームズデイを誕生させる。事態はシッチャカメッチャカになったところで登場したのが、スーパーマンの理解者ロイス・レイン。そしてルーサーの残したデータから発見したあの女性が、事態の収拾に駆けつける。そう、地上最強の美女・ワンダーウーマンだ。互いの立場と能力を理解したバットマンとスーパーマンは、互いのフィールドを生かして、新たな戦いに臨む。スーパーマンはドゥームズデイを止めるために、そしてルーサーに拉致されたスーパーマンの育ての母を助けに、バットマンは勇躍する。そして残ったドゥームズデイを倒すため、ついにスーパーマンは力尽きてしまう。

こうしてスーパーマンという中心人物を失い、残されたバットマンとワンダーウーマンは、ルーサーのデータバンクに残されたヒーローたちを探し出し、ジャスティスリーグを結成するために立ち上がるというラストで締めくくられている。とはいえ、「リターンズ」でも復活して見せたスーパーマンであるし、何かのタイミングで復活することは織り込み済みと考えるべきだろう。「アベンジャーズ」シリーズともども続編が楽しみなことではある。

ただし「スーパーマンの死」という事実は、一時的にせよ「スーパーマンが不在」という状況は、今後もありうるということでもある。ワンダーウーマンはこれから仲間の捜索と説得に奔走するだろうし、バットマンは私費を投じてスーパーヒーローたちの生活を保障するための場所をつくる必要に迫られるだろう。何より、精神的支柱であるはずのスーパーマンが不在のまま、それらを円滑に進めなければならないことの困難さは、筆舌に尽くしがたい。そしてまた同時に、スーパーマンが常に人類の味方である保証もない。なぜならかつて彼が少年だった時代、彼は常に境界に立たされていることで、孤独をかこっていたのである。地球をも守る理由が希薄なのは、状況として変わっていないのであるから、このポイントが何にすり替わっていくのか、今後も要注目だ。そう、「いない」ということは、同時に「敵に回る」可能性や、必要な時に「いない」という状況までも考え得るということなのだ。

 さて、「アベンジャーズ」に対抗してスタートしたこの一連のシリーズを、「DCエクステンディッドユニバース」というらしいが、この9月にシリーズ3作目となる「スーサイド・スクワッド」が控えている。なんでもこれまでバットマンが刑務所送りにしたヴィランが、使い捨ての部隊となって編成され、最も危険なミッションに立ち向かうという。メインキャラクターであるハーレ・クインのビジュアルのウケも上々だし、あいもかわらずジョーカーは不穏な空気を醸し出していて、なかなかに楽しめそうな作品な気がする。広げるだけ風呂敷を広げた「アベンジャーズ」シリーズ共々、楽しみは尽きない。
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波のまにまに☆

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後期必殺を好み、
スタートレックは
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