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「シン・ゴジラ」を見た後で見るゴジラシリーズ

 「シン・ゴジラ」、皆さんもう観ましたか? 私は観ました。すでに2度。もうね、全編興奮しっぱなし。いいわあ「シン・ゴジラ」。しかもね、見終わった人々がネット上やツイッター上で賛否両論、意見百出、喧々諤々。これね、平成ガメラシリーズの時に現在のネット状況があったら、間違いなくこんなお祭り騒ぎだったろうなって想像するとわかりやすいかな。段階を経て進化するのはゴジラじゃないとか、背びれや尻尾からの攻撃はゴジラじゃないとか、そういう細かいことはいいんだよ。だって映画として、ゴジラ映画として本当に面白いんだから。ポリティカル・フィクションとしての前半と、国際社会の中での日本の立ち位置の気まずさの後半、そして現在の日本の全力を見せたラストバトルの興奮という構成が実に巧みで、全くだれることなく最後まで見せきる力強さは、少なくともこれまでのゴジラシリーズにはないものだった。まあ豪快にいろいろすっ飛ばしてでも見せたいものを優先しちゃった娯楽作「FINAL WARS」(2004)ってのもあるけどさw

 でね、こんないいゴジラ映画見ちゃった後で、過去のゴジラシリーズを見直してみるとしても、いったい何を見ればいいのか? その命題に対していくつかの答えを、筆者なりに選んでみたいというのが、今回の主旨です。

<っと、その前に>
 本論に入る前に、やっぱり「シン・ゴジラ」の話をしておきたい。劇場公開後、賛否両論、多事総論、意見百出、喧々諤々。実にさまざまな話が飛び交い、久しぶりに活況を呈している特撮界隈である。何もライダー、ウルトラ、戦隊だけが特撮じゃないでしょ!っていうあたりの、怪獣ファンもとい都市破壊特撮ファンにとっては釈迦に説法だとは思うのだが、今回の「シン・ゴジラ」の魅力は、戦後の日本が2度の原爆攻撃にさらされた歴史的事実から最初の1954年の「ゴジラ」が生まれたように、幾度目かの巨大地震やそれによる甚大な被害、そして福島の原発事故といった現実から材をとって生まれた存在である。その意味では現時点で生まれるべくして生まれた映画作品であることが、まずは重要だろう。何も復興だけを目指して奮闘する個々の人々のドラマでお涙ちょうだい的な映画でなくても、その意味も意義も問えるのだとしたら、広く国内外にアピールする上で、この映画が果たす役割は大きい。9.11を経てハリウッドにおけるアクション映画の大作が、こぞってグラウンド・ゼロを材にとって、歯を食いしばりながら映像を作り上げてきた奮闘を思えば、この映画の登場は遅いともいえる。

だがこれで本作の意義を語りつくしたことにはならない。それ以上に重要なのは、きっちりとエンターテインメントに徹した作りでありながら、ポリティカル・フィクションとして現実に政府決定の過程を克明に描いたり、その怠慢を批判したりする映像を撮影しておきながら、単なる批判ではなく、最悪の状況下から最良の選択がなされていく過程をドラマとして描き込んでいる。特に「最悪の状況下から最良の選択が」の部分がより重要であり、その最良の選択があくまでも現実により沿いながらも、ちゃんとフィクションとしてエンタメしているところが、観客をひきつける最大の魅力なのだ。政府の閣議決定が事実の肯定なら、ゴジラの攻撃により内閣閣僚がすべて死んでしまうことで、ドラマが大きく動き出す瞬間こそ、この映画の魅力を端的に語っていると思える。内閣閣僚が死ぬことがフィクションなのではなく、ゴジラの攻撃にさらされる内閣閣僚という、今までのどのゴジラ作品よりも想像力の羽をさらに広げた先にある空想科学ドラマこそが、この映画の肝なのだ。だからこそ臨時内閣の発足とそれによる閣議決定の簡略化、そして自国の正義を押し付けるアメリカのやり方を退けるために、フランスとの交渉を粘り強く続ける臨時内閣の総理大臣の存在といった、今の日本の現実のその先にある空想が、現実味よりもややSFエンタメ方向に傾いている絶妙なバランスが妙味として面白いのである。現実に足をつけてはいるが、ちゃんと片足はSFとして気持ちよく浮いている感じ。そのバランス感覚がゴジラ対策チームの活躍に拍車をかけ、列車爆弾や高層ビル爆破によるゴジラ足止め作戦に現実味を与えていることになる。筆者はこのラストバトルの緊張感が大好きで、列車爆弾のシーンで笑いながら泣いていました。

 さてここまで「シン・ゴジラ」について語ってみたら気が付くことがある。こうした現実の時代背景とフィクションの部分のバランス感覚。これこそがゴジラ映画の面白さの一端だとしたら、これまでのシリーズをこの視点で振り返ると、どんなふうに見方が変わるのか? 今回はこういう観点で今見るべきゴジラシリーズをいくつか取り上げてみたい。

<ゴジラを倒せ!>
 1954年の「ゴジラ」という映画は、先述のように日本が受けた原爆攻撃の事実があり、さらにはビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験といった現実の中からメタファーとして誕生した怪獣映画だ。復興期の日本を背景に、戦中戦後の科学のありようを問いかける芹沢博士という人物の造形により、現実のメタファーであるゴジラという飛び道具に対して、科学の二面性をドライに問いかける、こちらもメタファーとしての「オキシジェン・デストロイヤー」という飛び道具がドラマを完結させる。つまり現実のメタファーに対するカウンターとしてのメタファーという、まるで二重否定のような形で映画が成立しているのだ。しかも日常に現れた二つのメタファーは、見た人に様々な批評の切り口を提示しながらも、まるで対消滅するかのように劇中消えていく。でも「あれが最後の1匹とは思えない」ってなことを言いながら。

 さて思い出してほしいのだが、きちんとゴジラが死んでみせる映画って実は少ない。「vsデストロイア」はメルトダウンで死ぬと、次のゴジラが誕生するし、ハリウッド版だと、ゴジラが卵ごと殲滅したはずなのに、残った卵から孵化して終わるのだ。みごとにエイリアンは続くよ、どこまでも!な感じだ。ね、ゴジラが死んでみせる映画では、必ず別のゴジラの存在が予見されることになるのだ。それに比べると、1984年に復活した「ゴジラ」は、帰巣本能を刺激され、三宅島の噴火口に落とすことでゴジラを敗退させている。しかも中盤の戦いでは秘密兵器・スーパーXのカドミウム弾によって、一度はゴジラを倒してまでいる。横槍を入れてきたのはまたしてもかの国の核弾頭だったりするのだが、ここまでやっているゴジラ映画は他にない。そして「シン・ゴジラ」では日本は、凍結後のゴジラとともに歩むことになる。これは廃炉となった原発とともに歩む、日本人の覚悟の姿なのかもしれない。

もっとも次作「vsビオランテ」(1989)では活動再開して生還しているゴジラなので、倒せてはいないのだけど。またミレニアムシリーズでは「ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃」(2001)において、人間の手によりゴジラが倒されている。ゴジラに飲み込まれた深海艇から発射されたドリルミサイルが、ゴジラを内側から貫通するのだ。これも数少ない人間の勝利である。また「×メガギラスG消滅作戦」(2000)ではより積極的にゴジラ打倒が物語の中心にある。マイクロブラックホールによってゴジラを消滅させようというのだ。最後の最後で失敗してしまうが、このマイクロブラックホールを作る技術もまた、科学の二面性にさらされることにより、ドラマは重みを増している。対戦怪獣を倒した後で、そそくさと海に帰っていくゴジラを見るにつけ、首をかしげてしまうゴジラシリーズは多いが、これらの作品は「シン・ゴジラ」とともに、「ゴジラを人間が倒した作品」として見直していてもいいのではないか。そこには人間の英知と努力と根性が息づいている。

<テーマ偏重>
 「怪獣災害」という言葉が本当にあるとして、怪獣が大自然の驚異という認識に立脚するならば、怪獣は台風や地震や津波と同等となる。本質的に怪獣とは自然災害のメタファーであるから、怪獣災害とは本質的に自然災害といっていい存在だ。自然災害はこの地球上で人間が生活を営む以上、避けることができない。その被害を最小限度に留め、崩壊した町は人間の手により復興する他はない。こうした自然災害は地球の大地や大気が持つシステムであるから、避けられないのも道理で、人間はそうしたシステムと上手に付き合っていくしかない。

いわゆる平成ガメラシリーズにおけるガメラは、太古の人間が遺伝子操作で生み出してしまったギャオスのカウンターとして、霊的な手法で生み出されたため、地球というシステムの守護者ではあるが、その発生はあくまで太古の人間たちの都合で生み出されている。人口抑制を目的として人を食う性質を持たされたギャオスにしても人為的な理由で発生している。これらは地球の自然というシステムとはかけ離れた存在であるから、平成ガメラおよびギャオスやイリスについては、自然災害のメタファーとは言いにくい。平成ガメラシリーズという土壌では、かつての「ウルトラマン」や「帰ってきたウルトラマン」に登場した自然災害のメタファーとしての怪獣は、その存在を許されないのだ。

 翻ってゴジラはどうだろう。今回の「シン・ゴジラ」でもゴジラ自体の発生には、牧教授の意志が反映されているとはいえ、完全な自然発生とは言いにくい。もちろん最初の「ゴジラ」(1954)にしたところで、水爆実験によるジュラ紀の恐竜が怪獣化して誕生しているので、そもそもゴジラは「反核」を主題として、不本意ながらも人為的に誕生している。だがシリーズを重ねるごとに、そのテーマが後退していくのはご承知の通りである。インファント島の守護神モスラや、やはり核や放射性物質が影響して誕生しているラドンやアンギラスなど、登場に際して出自がはっきりしているのはこのあたりまでで、その後「三大怪獣 地球最大の決戦」(1964)に登場した金星文明を滅ぼした宇宙怪獣キングギドラの登場を皮切りに、この地球上には劇中での出自もはっきりしないような巨大な生物がいろいろ出てくることになる。「ゴジラ・モスラ・エビラ 南海の大決闘」(1966)や「怪獣等の決戦 ゴジラの息子」(1967)、「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」(1969)などに登場するエビラ、カマキラス、クモンガなどといった、実在の生物が巨大化したような怪獣たちは、劇中何の説明もなく登場する。もちろん見ている当時の子供たちは、ゴジラの出自を知っているから、こやつらも似たようなものだろうと、タカをくくって見ているのである。ちなみにエビラは放射能廃液によって巨大化した設定だし、カマキラスは気象コントロール実験の失敗によって、牛ほどの大きさ(は?)だったカマキリが巨大化したとある。クモンガにいたってはもとからあの大きさだったとか。もう利も非もないw つまりゴジラ自身が「反核」のメッセージが後退し、次第に対戦怪獣とのバトルが物語の主軸にすり替わっていく過程で、対戦怪獣までもその出自とテーマを失わせていったと見るべきだろう。

 ところがどんな世界にも変わり者はいるもので、怪獣の出自に今更のように「公害問題」とか「環境破壊」なんてお題目を乗せて登場する怪獣がいる。「ゴジラ対ヘドラ」(1971)だ。この作品が再評価されるようになったのは、ここ10年ほどという気がしてならないが、それは本作で扱う「公害問題」というテーマに対し、数々の裁判や訴訟を経て、長い年月が経ったことで語りやすくなった事情があるように思う。同時に取り入れている70年代の世相が、若者の無気力だったり学生闘争後の気だるげでやるせない若者の無軌道ぶりだったりする。これについても学生闘争とその時代を振り返る写真集などが売れる昨今なら、振り返るのも容易だろう。「公害問題」に話を戻すが、筆者が小学5年生で習う社会科の教科書には、すでに「水俣病」「イタイイタイ病」「四日市ぜんそく」などといった公害を取り上げ、社会問題として学校で習った記憶があり、それ以降自分自身の関心事でもあったので、図書館などで関連書籍を読んでいた記憶がある。工場が無処理で海や川に流す廃液や重油、脱硫装置もない煙突から吐き出される重化学成分を含んだ煙などが、周囲に住む地域住民の人体に影響し、集団で発症することで明るみになった、戦後復興期の日本が抱えたひずみであり、当時の日本の問題性そのものであった公害。その被害者加害者が沈痛の面持ちで過ごした長い年月を考えると、ヘドラのような取り上げ方が、当時として正しかったかは定かではない。作り手は明らかにテーマ性を盛り込んで、問題提起のためにヘドラを登場させたことは疑いえない。だがその評価はあまりにも問題が身近すぎて扱いづらかったことは容易に想像がつく。この扱いづらい問題を見ている子供たちにわかりやすく提示したこと自体を評価すれば、本作はシリーズまれにみる名作となるだろう。

 平成シリーズに目を移せば、環境破壊が生み出した怪獣として「ゴジラVSモスラ」(1992)に登場したバトラがいる。生産活動が生み出す二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスによる温室効果、大気温の上昇とそれに伴う異常気象、極地の氷の融解という流れを経て、北の海から復活を遂げたバトラの幼虫は、文明を破壊するために生まれた存在である。ただし、劇中ではゴジラと相打ちとなり海中で果て、本来の役割である隕石落下を防ぐ役割を、残ったモスラに託す形となる。あれ、環境破壊、関係なくなってるw 映画としては、主人公夫婦が子供に教えさとすように環境破壊を勇めるシーンがあり、バトラの出自が環境破壊にあるという説明程度で、あまり深くつっこんでは来ない。「環境破壊」というお題目が作り手にとってあまりに気持ちのいいものではなかったようで、テーマ性としては明らかに味付け程度になっているあたりが、話題としての「環境破壊」がすでに子供たちの説教レベルで陳腐と化していたことを明かしているようなものである。どうやらゴジラシリーズというのは、「反戦・反核」「科学の二面性」といった1954年の「ゴジラ」で提示したテーマを超えてまで、時事ネタや話題を盛り込むことが苦手なシリーズであるらしいことがわかる。それゆえに「シン・ゴジラ」で盛り込まれた現代の日本の抱える現実の問題性を浮き彫りにした物語は瞠目に値する。

<対戦怪獣とは何者か?>
 ここまで読んでいただいた諸兄なら、ゴジラシリーズに登場する対戦怪獣が、実はゴジラ自身が失ってしまったテーマ性を持たされて登場してきた経緯があったことはお分かりいただけることと思う。問題はその対戦怪獣たちもそのテーマ性を剥奪、もしくはそもそも持たずに登場してきていることになる。こうなるとゴジラシリーズがどうしてテーマ性を持ち得なくなってしまったかの理由もうなずけよう。子供たちに迎合し、ウケるために作り続けられたゴジラシリーズは、テーマ性などどこにも入り込む余地がなくなってしまった。ところが子供たちのために良かれと思って作り続けてきた大人たちにとって、裏切りともいえるテーゼがもう一つ存在する。子供は子供っぽいものを成長と共に敬遠するということだ。戦隊シリーズに熱中していた子供はやがてこれに飽いて卒業する。戦隊シリーズの門戸は、TVシリーズなだけに、あくまでも低く設定されているので、卒業する子供が出ても、次の子供が控えている。そういうコンテンツだ。現在の地上波TVにおいて、かつてのゴジラシリーズを放送するTV局はほとんどないし、ただでさえゴジラは映画というコンテンツだから、お金を払わなければ見ることができない。かつては夏休みや冬休みなどの時期に放送していたが、やがてひどくつまらないバラエティ番組で駆逐されていく。これでは門戸を下げるどころか、子供たちの集客は望めない。こうして昭和のゴジラシリーズは低迷し、シリーズ凍結となる。

<近未来メカニックと侵略SF>
 昭和シリーズの最末期にシリーズを彩った怪獣たちとは、テーマ性を持たずに登場した。その一方で「地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン」(1972)から「メカゴジラの逆襲」(1975)までの作品は、むしろ深海や外宇宙からの侵略者によって怪獣がけしかけられる、いわゆる宇宙人による地球侵略の物語となっている。もっともさらにさかのぼれば、「怪獣大戦争」(1965)などもあるし、平成シリーズでも「vsキングギドラ」(1991)では未来人が現代の日本に経済的打撃を与えるためにタイムスリップしてくる、未来から過去への侵略だったりするけれど。昭和のゴジラシリーズの最末期の作品群がすべて侵略SFを扱っていることは、注目すべき事項だろう。この侵略SFにはゴジラを凌駕するために登場した対戦怪獣が、機械化されている怪獣である特徴を持つ。生物然としながら体のそこかしこが機械化されているガイガンの鋭角的なデザインセンス。そして目には目を、歯には歯を的に誕生した鋼の体のメカゴジラ。そのどちらも、観客にアピールする部分は、生身の怪獣よりも強そうな機械部分の圧倒的なビジュアルなのだ。しかもメカゴジラに使用されているスペースチタニウムという架空の金属元素の存在といい、それによる物語解決への糸口の見つけ方といい、きちんと物語の中に織り込まれている感じは、誠に持って正統派の侵略SFの王道である。市井の人びとを助けるFBIの捜査官役の岸田森さんとか、かっこいいんだぞw まあジェットジャガーはお察しってことでw

<平成とミレニアムと>
 1984年に復活した「ゴジラ」と、その後日談となる「VSビオランテ」(1989)は、一応の連続性のもとで物語が成立している。特に遺伝子研究とその技術によって誕生するバイオ怪獣ビオランテの誕生背景のSFや、ゴジラ細胞にまつわる企業の暗躍、そしてゴジラのカウンターとなる抗核バクテリアというガジェット、スーパーXおよびその2号機のIIなどのメカニックなど、充実の空想科学の雪崩打ちは、今もって人気の高い作品となった。「VSメカゴジラ」(1993)と「VSスペースゴジラ」(1994)では、対戦怪獣が人間自身が操るメカニック怪獣メカゴジラとモゲラが登場する。かつて侵略宇宙人の手先であった両メカ怪獣が、今度は人類の手先になるという皮肉よりも、これまでなすすべなくゴジラに蹂躙されていた日本人が、初めて自らの手でゴジラを倒そうと試みた筋運びに、まずは納得できる。メカゴジラを開発したGフォースなる日本の組織は、平成シリーズに花を添えるゴジラ専任の軍事組織であり、自衛隊とも防衛隊とも異なる組織として独立しているのが特徴だ。事ここに至って、日本人はゴジラと対等な立場となる力を手に入れたかと思いきや、やはりゴジラには一歩及ばないというあたりも、ちょいとマヌケな日本人っぽくて、いいじゃないの。

 さてミレニアムシリーズの1作目となった「ゴジラ2000ミレニアム」では、鋭角的に洗練されたゴジラがカッコイイ一方で、やはり日本はさも当然のように蹂躙される。ゴジラ細胞による驚異の治癒力の謎が物語の中心にあるかと思えば、深海から現れたミレニアンと呼ばれる宇宙人が登場し、ゴジラの情報からオルガという宇宙怪獣になるという仰天展開! 実のところ、ミレニアンによって地球の大気成分はミレニアンに適応した大気へと変換されようとしており、ゴジラの治癒能力を使ってミレニアンは失われた自身の肉体を取り戻そうとしていたという、一風変わった侵略SFだったのだが、海から引き揚げられた岩塊→金属体→UFO→オルガという流れが、なんとも不思議なものを見ている気がしたのを、今でも覚えている。今さらながらこの作品、ムー的な意味で再評価してもいいんじゃないかw

 ミレニアムシリーズの最大の特徴は、シリーズといいながら時間的な継続がほとんどなく、個々の作品が1954年のゴジラからの引用となる場合が散見されることだ。これがいいかどうかは別の話だが、少なくとも平成シリーズのような申し送り事項による脚本上の縛りがないことは作品制作上の利点であったはずだ。ところがその自由度は監督や脚本家によってゴジラの捉え方の差異を露呈していく。つまり監督が複数人いれば、その人数分だけのゴジラ像が結ばれる結果となる。

 はっきりと主人公たちから憎悪の対象として打倒すべき存在と規定している「×メガギラス G消滅作戦」(2000)、太平洋戦争で死んでいった兵士たちの魂が形となった「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総進撃」(2001)、1954年のゴジラの骨格から作られたメカゴジラが登場することで、より怪獣災害として側面が強調された「ゴジラ×メカゴジラ」(2002)とその続編「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」(2003)。もうこうなると、ゴジラ映画としての好き嫌いでしかなくって、どれがゴジラでどれがゴジラではないとかいう認識論は意味がない。終いにゃ、怪獣の存在意義に利も非もない「ゴジラファイナルウォーズ」(2004)という快作がある。だがもはや存在意義すらも消失してしまったゴジラであるからこその快作であったと思えば、実に小気味良いではないか。この「ファイナルウォーズ」がまたこれまでのゴジラ映画のごった煮映画であることはご承知の通り。ミュータント兵士とM塩基というSF設定に、X星人による侵略SF、かつてのゴジラの対戦怪獣はすべてX星人によって操られ、ゴジラと敵対するもわずか数分で撃退する、実に豪勢な使い方w そして海底軍艦・豪天号によるゴジラとの一騎打ちとか、きっと誰かが見たかっただろう映像のてんこ盛り。でもそれぞれのゴジラ像は全く異なるが、唯一はっきりしているのは破壊神としてのゴジラの印象だけだ。

<都市破壊は誰のために>
 こうなるとゴジラがどういう理由でシリーズが延命してきたかの理由がようやくはっきりしてくる。ゴジラは破壊神であり、ゴジラによる都市破壊とは、ゴジラシリーズの肝であり、それは観客の最大公約数的な要求事項であるということだ。都市破壊。それは、特撮フリークだけではなく、都市破壊によってカタルシスを得る人がゴジラシリーズを支えてきた最大の立役者であるという事実を最大限肯定する映像体験なのだ。言ってしまえば、ゴジラは都市破壊をすればそれだけで存在意義がある。ところが皮肉なことに、この都市破壊が凄惨であれば観客は目を背けるし、ただ精緻に作りこまれたミニチュアを破壊するだけなら、観客はすぐにその映像に飽きてしまうだろう。都市破壊のカタルシスが観客にとってどういった作用があるかは識者に任せるが、少なくともそうした都市破壊の映像にニーズがあるからこそ、日本ではゴジラシリーズが存続できたであろうことは疑いえない。

スタジオ内でセットを組み、広々とした富士の裾野を背景に4匹の怪獣が戦う「三大怪獣 地球最大の決戦」(1964)などを見る限り、あのだだっ広いスタジオのセットの中を縦横無尽に暴れまくる怪獣たちの姿を見ていると、狭いスタジオの中でせせこましく戦っているウルトラマンの画作りが、少しばかり陳腐に見えてしまう。横長のスクリーンに映える広大なスタジオのステージの迫力と、それに負けない怪獣たちの取っ組み合いは、それだけで子供たちの耳目を集めるのに有効だったであろう。子供のころに映像体験として刷り込まれたゴジラシリーズの大迫力のパノラミックな映像は、現在の大人になった目で見ても、十分にお金のかかった映像でもある。

 ところが「vsスペースゴジラ」(1994)におけるラストバトルにおいて、バトルスペースを上から俯瞰する映像がある。こういう映像はバトルスペースの状況や怪獣たちの位置関係がはっきりすることと引き換えに、撮影ステージの狭さが露呈してしまう上、怪獣たちの巨大感が減退してしまうことになる、諸刃の剣のような映像でもある。また「vsモスラ」(1992)でラストバトルを演じる横浜のシーンだと、どうしても真横から怪獣たちのバトルを撮影した映像が出てくる。これがまたどうしてどうしていい映像とは思えない。見せたいものはわかるのだが、問題はやはり対象物としての怪獣が小さく見えてしまい、映画のスクリーンに映えるとは思えないのだ。

 こうして比較してみれば、昭和のシリーズにあって平成以降になくなったのは、スクリーンの巨大さに堪えられるだけの大きな特撮映像と、それを作るための広大なステージということになるだろうか。かつて東宝が所有していた巨大なセットが組めるだけのスタジオのほとんどは維持管理の問題で失われている。本来TVシリーズであるウルトラマンのシリーズが映画であるゴジラシリーズにどうしても追いつけない点があるとすれば、それは広大なセットで撮影されたパノラミックな映像であるはずなのに、それが失われてしまっては、ゴジラシリーズの根幹が揺らぐ。平成ガメラ以降、怪獣特撮の現場はCGによる補足的な方法が使われているが、そのCGがむしろ主流になってきている。「シン・ゴジラ」においてもCGは前提としてある映像技術であるが、その使い方の割合が気になるところだ。「巨神兵、東京に現る」における巨大なステージを破壊し、蹂躙する映像体験は、CG全盛の今ではなかなかお目にかかれる体験ではない。それだけに表現の方法論としての特撮とCGの使い方、見たい見せたい映像の作り方、そして巨大怪獣特撮としてのアイデンティティを失わずに済むカメラアングルなど、特撮ファンが議論する点は多いし、作り手の議論もまた同じだろう。CGで画を作れば安く済むなどという論理は、いわゆる岡田斗司夫氏あたりがいいそうな「安いCG」の使い方でしかないし、CGの映像技術の現場で働いている技術者への冒涜である。

 んで、筆者がオススメする「シン・ゴジラ」を見た後で見るゴジラ映画を上げるとすると、という視点でいろいろ書いてみたが、個人的にあまり見返したくない作品もあるかわりに、「シン・ゴジラ」との映像比較として見るべき作品も多くあることが分かった。ポリティカル・フィクション部分に着目すれば、「ゴジラ」(1984)や「ゴジラ2000ミレニアム」(2000)などは比較対象として楽しめるだろう。ゴジラ1匹だけで千両役者的な活躍を見せた「シン・ゴジラ」に対して多くの怪獣が入り乱れてのバトルが特徴的なシリーズは多数存在する。またガイガンやメカゴジラ、メカキングギドラやモゲラなどのメカ怪獣、ゴジラの存在を起点とするビオランテやスペースゴジラ、デストロイアなど、出自よりもその存在感に重きを置いた怪獣たちの活躍が目を引く作品もある。とりあえず都市破壊が見たいなら、個人的には湾岸エリアのコンビナートの大爆発が見られる「ゴジラ対メカゴジラ」(1974)の序盤の対決シーンなどいかがだろう。2匹のゴジラかと思いきや、片方の皮膚がはがれて金属が眩く光ると、オプチカルな合成の炎が足元から燃えだし、メカゴジラが登場するシーンは圧巻だ。そんなことを言いだしたらきりがない。1万字を超えているので、ここらへんで。どうかあなたもご自身の好きなゴジラ映画を見つけてください。これだけの数があるのだから、きっとあなたのお気に召すゴジラ映画があるはずだ。
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コメント

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繋がっていく懐かしい新しさ

ゴジラは常に新しいものを、進化していくんですよね
それは怪獣としてや演出などのメタファーでもあれば、テーマと存在意義も。

シンゴジラはまさに「日本人が忘れたい、捨て去りたいもの」だと思います


「先の大戦では楽観的希望的憶測で300万人の犠牲者が出ました」
「世界はゴジラと共存していくしかない」

戦争と核技術。
これは日本人がゴジラに託しながらも、忘れ去りたい忌まわしい記憶
だからこその上記の台詞だと思います

繋がる!

キランストさま
 コメントありがとうございます。
 「日本人が忘れたい、捨て去りたい」が胸に刺さります。
 本文でも書きましたが、アメリカ人が自国の映画の中で、テロによるグラウンドゼロの災難を繰り返し描いていたことに通じるものがあり、彼らが(あまりそんな印象はしませんが)歯を食いしばって、この悲劇を忘れずにいようと、映画を作り続けてきたことを思えば、日本人はこういうことから、お涙ちょうだい的な物しか作れなかったことを考えれば、「シン・ゴジラ」での描き方は、正鵠を射ていると思えます。だからこそ、ゴジラと共存していく日本というラストの決意が、意味を持つと思えます。

 「シン・ゴジラ」で描かれたゴジラ像が、これまでのシリーズのゴジラと明確に違うものであることは、ご理解いただけたかと思うのですが、1954年のゴジラが原水爆からのインスパイアであり、「シン・ゴジラ」が日本の度重なる震災からのインスパイアであるとするならば、その間に作られたゴジラシリーズが、何のインスパイアであったかという考察から入ろうと思うと、「対ヘドラ」の公害と、「ゴジラ・モスラ・キングギドラ」の太平洋戦争の被害者の霊、といった2例しか思い当たらず、早々に記事がとん挫しまして、ご覧いただいた散漫な感じの記事に落ち着きました。時代をゴジラシリーズに取り込むには、あまりにもキャラクターが出来上がっているのがゴジラであり、早々に対戦怪獣へと視点が映っていった、そんな感じがします。そのつながり方が絶妙だと思えるのは、メカメカしい昭和シリーズの終焉あたりと、平成VSシリーズでしょうか。私は「シン・ゴジラ」のおかげで旧シリーズを見直せましたが、キランストさんはいかがでしょうか?

過去から学ぶ

シンゴジラは歴代シリーズを見直すキッカケにもなりました。
流行りを採り入れてきたというのもありますが、ゴジラを通して社会問題を感じとるとかは多分オマケなんですよ
ゴジラは一貫して、その裏にある人間と向き合った作品だからです
震災はともかく、戦争や核については人間が引き起こしたもので、ゴジラですら人間がいなければ生まれるはずがなかったものですからね
確かに繋がりがあったとこを見ると、命というのが鍵でしたね


昭和終盤は機械的な存在、VSシリーズはゴジラの生涯を描いていましたから
命ががない敵もいたことがその証明になるかも……

なるほど

キランストさま
 まいどコメントありがとうございます。

 ゴジラのかつてのプロデューサーによれば、ゴジラシリーズはファミリーピクチャーであり、大人が子供に対してなかなか言えない大上段に構えた説教をほんの少しおりまぜてあるそうです。ゴジラシリーズにある社会問題の扱いが些細な理由は、このあたりにありそうです。

 ゴジラは人間を移す鏡というのは慧眼ですね。
 「VSメガギラス」でもゴジラを倒したい→ディメンションタイドを作る→その技術を応用して別の兵器に転用したい人間がいる→ばーかばーか、っていう流れでしたから、そうした人間の負の活動を否定するための装置だと考えれば、合点がいく話です。
プロフィール

波のまにまに☆

Author:波のまにまに☆
東京都出身
43歳になりました 
妻一人

戦隊シリーズをこよなく
愛する、男オタ。
特撮は主食、
アニメは副菜。
後期必殺を好み、
スタートレックは
ピカード艦長が大好物。
Twitter再開しました!

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