ウルトラマンパワード~リメイクと語り直し~

 「ウルトラマングレート」が、作品を語るにあたり口ごもってしまうのと対照的に、今回扱う「ウルトラマンパワード」に関しては、語りたい点がいくつかある。最初の「ウルトラマン」のリメイクであり、90年代の特撮技術によってかつての名作がどのように変化するのか、という点もさることながら、現代的にアレンジされた科学特捜隊の未来装備や衣装、新時代に合わせた組織構成や人材のあり方など、どういった切り口でも語るべき点がある作品だ。もちろんそれは初代「ウルトラマン」というひな形があってのことで、比較対象が明確化されているが故に、語りやすいという側面がある。これはパワードという作品を語る上で重要な点で、受け手がどのように見るかを、作り手自身が十分に意識しながら作っている証明でもある。何が違って何が同じかをあげつらうことは、「ウルトラマンパワード」を楽しむにあたっての準備段階を踏んだに過ぎないと思う。もう一歩踏み込んで、何ゆえにどういう視点を持ち込んで語り直したのか? はたまた全てを放り投げてリメイクしたのか? 今回は「語り直し」と「リメイク」という2つの切り口で見直してみたい。

<作品概要>
 「ウルトラマングレート」は製作されたオーストラリアのみならず、アメリカ本土におけるケーブルテレビなどでの放送によって好評のうちに幕を閉じた。これを契機として映画の都・ハリウッドでの製作を前提とし、海外戦略の下に新たなウルトラマンの物語が誕生することになる。クリエイター集団GONZOによって手掛けられた基本設定やデザインは、初代の「ウルトラマン」をリメイクする企画案を骨子に肉付けがなされ、1993年についに完成を見る。それが「ウルトラマンパワード」である。

 物語としては全13話の1クール。それぞれの回の登場怪獣を基本として、初代のタイトルを並列してみる。

1話「銀色の追跡者」→2話「侵略者を撃て」
2話「その名はウルトラマン」→21話「噴煙突破せよ」
3話「怪獣魔境へ飛べ!」→8話「怪獣無法地帯」
4話「闇からの使者」→22話「地上破壊工作」
5話「電撃防衛作戦」→9話「電光石火作戦」
6話「宇宙からの帰還」→23話「故郷は地球」
7話「灼熱の復讐」→32話「果てしなき逆襲」
8話「侵略回路」28話「人間標本5・6」
9話「復活!二大怪獣」→19話「悪魔はふたたび」
10話「二人の英雄」→13話「オイルSOS」
11話「よみがえる巨獣」→26,27話「怪獣殿下」
12話「パワード暗殺計画」→25話「怪彗星ツイフォン」
13話「さらばウルトラマン」→39話「さらばウルトラマン」

 さて、このセレクトを見て、不思議に思うことはないだろうか? 単純に統計を取るなら、1桁台の話数がセレクトされているのが3話、10話台が2話、20話台が7話、30話台が2話と、圧倒的に20話台の物語をセレクトしている。偏っているのかと思いきや、比較のためにDVDでピックアップしてみると、8巻を除く全巻から話がピックアップされていることがわかる。その意味では全編にわたってまんべんなくセレクトされている。

ラインナップを見ていて思うのは、都市部よりも山間部やアメリカの片田舎における大災害を表現したような話のセレクトが多く、完成作品を見る限り、アメリカのオープンセットでの撮影を念頭においてセレクトされていることが想像できる。初代のころはスタジオでセットを組んでの撮影で、大きな映像を撮影することがかなわなかった故に、どうしても狭い画面になりがちだった表現を、アメリカの広大な自然や抜けるような青空や背景を借景として、巨大な迫力ある災害映像を撮影したいという願いのようなものが、このセレクトに現れていると思える。

その一方で、「エイリアン」や「Xファイル」を思わせる都市部や狭い範囲での怪現象がアメリカドラマ的には十八番だから、1話のバルタン星人の登場や8話のダダのコンピュータ回線を使った侵略といった謎解き要素の強い物語のセレクトは、そもそものお家芸であるアメリカ向けにセレクトされている感触がある。つまるところ、本作における原典のセレクトが、アメリカという土地での放送を意識し、アメリカに受け入れられるアレンジを施しやすい話を選んでいると見るべきだろう。アニメで言うところのシリーズ構成の、見事な仕事である。

 基本設定を俯瞰すれば、ウルトラマンが地球に滞在する理由は、バルタン星人の地球侵攻を阻止する目的であり、本シリーズの経糸としてバルタン星人を規定していることが物語の根幹をなしていることがわかる。この経糸によって、偶発的な事故によって死んだハヤタへの謝罪という部分が消えている。同時にベムラー護送中に逃げられた間抜けな宇宙警備隊というマイナスイメージも払拭しているのは見事だ。何となく失念しがちだが、「グレート」の企画段階で小中千昭氏がしきりに語っていた神格化されたウルトラマンという概念が、私の中でなぜ薄かったのかは、このポイントが重要な位置を占めていたからで、ウルトラマンって、どこか人間臭いドジっ子宇宙人という印象があったからなのだが、パワードではそれを拭い去ってしまったのだ。個人的にはちょっと残念だ。筆者はケロロ軍曹が大好きなもんでしてねw

 初代の歌では「怪獣退治の専門家」とされる科学特捜隊は「W.I.N.R.」と名を変えたが、基本的にはやることは同じ。もちろん怪現象や怪獣関連に対する調査対策捜査の専門家であるので、本質的には攻撃兵装には怪獣対策のために必要とされている。とはいえ侵略宇宙人との戦闘には、質量ともにまったくの役不足であるから、こういった場合には軍の出動が最優先となるはずが、宇宙人の侵略の矢面に立たされている不都合な点まで踏襲されてしまっている。少なくとも「シン・ゴジラ」を見た後では、専門家部会がそれぞれの専門性を持って事に対応する事例を見た後では、科学特捜隊による怪獣との戦闘は、あまりにもファンタジーにすぎると言わざるを得ないだろう。国連の一組織の科学特捜隊が地球防衛軍のウルトラ警備隊へと変遷したことを思えば、まあそこは原典をきれいに踏襲したと思っておこう。

 デザイナー前田真宏氏によるリファインされた怪獣デザインは、より巨大に、より生物的に、より現実的にデザインが施されている。筆者の友人がいうところの「臭そうだ」はまさに褒め言葉だと思う。動物を家庭内で飼育している人なら想像できるだろうけれど、こういう生物がいたら、それなりの異臭がするはずで、その匂い立ちそうなフォルムこそ、パワード怪獣の真骨頂だろう。逆に異生物然としているバルタン星人の細いフォルムや、バランスをあえて崩すことで不安感をあおる姿を見せるダダやジャミラなどは、人間のフォルムに即しながらも違和感たっぷりで異星人としてのアイデンティティが際立っている。

リメイクされた物語については後述するが、リファインされたウルトラマンや怪獣たち、W.I.N.R.の装備や兵装の数々など、どれもセンス良くまとまっている。また最終的にバルタン星人がシリーズの敵として登場する統一感ある見やすは、や「ウルトラマンA」のヤプールや「ウルトラマンダイナ」のスフィア、「ウルトラマンガイア」の根源的破滅招来体などに通じるものがある。こうした美点が多く、それぞれが突出していて主張してながらも、なぜだか見やすい、というのが基本的な「ウルトラマンパワード」という作品の一側面だと思う。

<リメイクというインターフェイス>
 ウルトラマンパワードは根本的に初代「ウルトラマン」のリメイク作品ではあるのだが、その視聴対象を日本人ではなくアメリカ人に設定してある。仮面ライダーでは「仮面ライダー龍騎」が「仮面ライダードラゴンナイト」としてアメリカで放送されたり、戦隊シリーズの「恐竜戦隊ジュウレンジャー」が「パワーレンジャー」として放送されて、現在でも連綿と続くシリーズになったことを見れば、たった13話で終了してしまったのが惜しくもある。とはいえ、ウルトラシリーズがこうした日本産特撮作品の現地版アレンジとして放送される嚆矢となったのは、日本特撮の先駆けとして常にリードしてきた円谷プロ作品らしいのかなとは思うところ。

 1,2話は「ウルトラマンパワード」の設定話であり、ウルトラマンが地球のとどまる理由を描いた1話に対して、ウルトラマンとW.I.N.R.の共闘によってケムラーを倒す筋運びの2話は、ウルトラマンが地球人類に味方する宇宙人であることを示すという流れになっている。より生物然としたケムラーの固い甲羅をこじ開けて、その下にある弱点をW.I.N.R.が攻撃を仕掛ける展開は胸アツだ。1話ではビルが立ち並ぶ都市部における戦いであったから、陽光降り注ぐオープンセットでの2話の画面の広がりは、やはりオープンセットの画の大きさが頼もしい。3話でもそのオープンセットが生かされているが、ここでの驚きは雌雄で登場するレッドキングそのものだろう。怪獣にも雌雄があるという、忘れがちな驚きは、「帰ってきたウルトラマン」のシーゴラスとシーモンスや「ウルトラマンタロウ」のキングトータスとクイーントータスを想起させるが、夫婦怪獣のほのぼの話にはならない辺りは「タロウ」との歴然の差を感じる。何よりかつての狂暴でならしたレッドキングに雌雄があるという意外な一面が、物語に自然界の脅威という側面を添えている。

 4話では地底人による地上破壊工作とテレスドンの侵攻が描かれているが、本作で「太陽の民」と呼称されている地底人の設定がアレンジの妙だと思える。ウルトラマンに似た神による導きによって、隕石の落下によるカタストロフから地底に逃れた太陽の民の設定は、バラージの民のようでもあり、再び地上に戻ろうとする侵攻意図は海底に逃げ延びた先史住民のノンマルトにも似ているのだ。作り手が地底人の出自に意を砕いた結果ではあるが、なんとなく「ティガ」に登場するキリエル人のようにも思える節があって、30分の物語では語りきれない興味が残る。また再登場時のテレスドンの目に遮光フィルターがついていたのは、「ガメラ 大怪獣空中決戦」に登場するギャオスを思い起こさせる。

 6話はジャミラの話ではあるが、科学発展の二面性と痛烈に批判し、それゆえに悲劇で終わるしかなかったかつての名作は、怪獣化してしまう人間が身内に向けるやさしさによって、怪獣化しても人間の心を取り戻すが、それゆえに自信を殺してほしいと願い出る結果となる。「シルバー仮面」の後半にも非常に近い話があるが、かつての悲劇のようなインパクトは薄いし、批判も薄い。8話ではザンボラーが登場する物語だが、この作品の白眉は、数百度の熱を発する巨大生物が山間部に現れた場合のシミュレーションとなっていることだ。そんな巨大生物が山にいるだけで、植物は自然発火して山火事はどんどん広がるし、その状況下では人間はザンボラーに近づくどころか、その付近で呼吸もままならないから生きていけないのだ。ツッコミかたが「空想科学読本」っぽいのだが、そうした科学的事象を特撮技術で映像化することはとても大事で、それゆえにW.I.N.R.の作戦が狭められるし、カイが地上での作戦行動に危険を伴う理由付けがなされることになる。もちろん地上での単独行動故にウルトラマンに変身できるのであるから、流れがきちんと物語に組み込まれているのは気持ちがいい。高熱によって人工衛星からのビームが曲がったり、位置情報がねじれたりといった話は、「新世紀エヴァンゲリオン」のキューブ型の使徒での決戦でもあった件だ。

 前述のように「ウルトラマンパワード」の物語は、間違いなく初代「ウルトラマン」の物語を大きく逸脱したものではない。もちろん13話というシリーズの短さゆえに、省略されたり、解釈を拡大させたり、説明不足を招いたりといった問題点はどうしても残ってしまうが、それでも大枠としての物語がすでにあって、再構築されているという特徴は、すべての不利を覆い隠してしまうことになる。リメイク作品のインターフェイスとしては、やはり初代「ウルトラマン」の功績というべきなのだろうか。

<語り直しの語り口>
落語の「時蕎麦」とい噺をご存じだろうか? ある夜に蕎麦を食う男がいやになるほど蕎麦屋を持ち上げながら蕎麦を食べるが、支払いの時に16文のうち1文をかすめる。そのやり取りの一部始終を見ていた別の男が、あくる晩に同じことをしようとするが、かえって1文損してしまうという噺だ。この噺の面白さの要諦は、同じシチュエーションを繰り返しながら、全く別の展開が待ち受けており、前段のすべてが前フリとして生きていることだろう。ウルトラマンパワードという作品は、この「時蕎麦」によく似ていると思うのだ。やっていることは同じようなことなのに、どこか違う展開が待ち受けていて、旧作「ウルトラマン」という前フリがあるがゆえに、本作の改変部分が生きてくる。その意味では、新旧の作品のどちらかに優劣があるのではなく、旧作を新作で語り直しているのだ。当時の最先端のセンスでデザインされ、当時の技術で撮影され、当時の社会状況を取り込んでいる。でも決して旧作から離れてもいない。意外性は少ないが、安心して見ていられる理由は、語り直しの口当たりの良さである。

例えば映画「ULTRAMAN」(2004)は、単独で見た場合は、かつての「ウルトラマン」が地球に飛来し、ベムラーを取り逃がしたエピソードの語り直しで、小林泰三著「AΩ-超空想科学怪奇譚-」もこれに相当する。仮面ライダーを例にとれば、「真仮面ライダー」(1992)、「仮面ライダーZO」(1993)、「仮面ライダーTHE FIRST」(2005)の3作品は、いずれも語り直しで、その語り口の側面が異なる。「真」は「バッタの改造人間」という設定に当時のクリーチャー技術で答えた作品だし、「THE FIRST」は原作をスタイリッシュに語り直したうえで恋愛要素も加えている。映像作品としての仮面ライダーをストレートにヒーロー然としてとらえ直したのはむしろ「ZO」の語り直しの切り口だろう。昭和のガメラシリーズにおける子供たちの味方というガメラ像を、地球という生物系の守護者としてとらえ直して作られた平成ガメラシリーズもまた語り直しといっていい。

つまり、「語り直し」というのは、原典にある特定のポイントや全体像を、基本的な物語を大きく改変することなく、その時々の技術によって作り直した作品群というべきだろう。旧作の本質的な面白さや設定などの一部を引き継ぎながら、さらなる解釈を加えたり、最新の技術で表現の多様さを広げたりという、作り手の自負とサービス精神の結晶と呼んでもいいかもしれない。もちろんそれを商売と呼ぶのは仕方がない。コンテンツの寿命を延命させるために、作品が完成した後、一定時期が経過すると、こうした語り直し作品が発生するのは仕方がない。ティム・バートンの「バットマン」が「バットマンビギニング」になったように、サム・ライミ版「スパイダーマン」が「アメージング・スパイダーマン」になったように、ハリウッドのコミックヒーロー作品は、マーベルスタジオ作品の隆盛も手伝って、現在追い風状況である。そして「宇宙戦艦ヤマト2199」(2012)がそうであるように、コンテンツの延命と商売の裏に、作り手や送り手の自負だってあることを忘れることはできない。それはかつての作品のファンを刺激し、喜ばせたり落胆させたりするだろうが、同時に新規のファンをも開拓する。

その一方で、富野由悠季監督の手による後日談的な歴史を語るガンダムの正史シリーズに拘泥することなく、様々な派生作品が作られるガンダムシリーズは語り直しとは言えないが、富野御大が次作で提示した問題提起を、それぞれの作品の監督がどう受け止めたのか?という視点があるからこそ、ガンダムシリーズが一連の作品としてまとまって見られる統一感があるし、コンテンツとしての安心感も面白味もある。それは毎度毎度シチュエーションを変更する「ウルトラシリーズ」も同様だ。コンテンツの延命という点で見れば似たようなものだが、まあ「バビル二世」なんていう例もあるので、すべての作品を、諸手を挙げて受け入れるわけにはいかないけれどw

さて、ここまで「ウルトラマングレート」と「ウルトラマンパワード」を俯瞰して見てきた。ブルーレイ発売記念というより、筆者が初めてこれらの作品を見た当時に言葉にできなかった想いを吐露したような記事になったことは忸怩たる思いがあるが、この語り口こそが、この2作品に対する評価やファンの想いを代弁するものではなかろうかという思いがある。2作品を否定的に見れば、「グレート」は作家性が際立っているのに、映像化の段階で出る杭が打たれてしまったゆえに平坦な作品となったし、「パワード」は初代「ウルトラマン」の傘からは一歩も外に出ることはかなわなかった。だが2作品があればこそ、その後のクリエイターの発露としての平成特撮作品はありえなかったわけで、その試金石としての2作品がいかに大きいものであったかは、この場で何度も繰り返したポイントである。90年代後半以降の特撮作品を見慣れた目で見ると、今の作品に通じるポイントに気づくことができる作品たちである。どんなものにも歴史という潮流があり、その流れは別の流れと合流したり、分岐したりと離合集散を繰り返す。その結節点にあるこの2作品をいま、見逃す手はないと思う。
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

プロフィール

波のまにまに☆

Author:波のまにまに☆
東京都出身
43歳になりました 
妻一人

戦隊シリーズをこよなく
愛する、男オタ。
特撮は主食、
アニメは副菜。
後期必殺を好み、
スタートレックは
ピカード艦長が大好物。
Twitter再開しました!

カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
namima2のつぶやき
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

FC2カウンター
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
リンク(リンクフリーです)
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
FC2 Blog Ranking
フリーエリア
blogram投票ボタン
ブロとも一覧

あにめにゅ~す の あににゅ

分水嶺☆大分のお土産といえば『ざびえる』

素足のアイドル達

有名人の珍言・名言集

宮廷アリス

TOY BOX
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

[FC2 Analyzer] http://analyzer.fc2.com/ -->