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映画3題~トランスフォーマー、スパイダーマン、ワンダーウーマン~

 それにしても、アメコミヒーローの映画しか見てないなw
 そんなわけで、今年の夏のお祭りアメコミ映画ばかりですが、見たので一応書き残しておこうかと。軽い感想を述べさせてもらえれば、一番楽しく見られたのはスパイダーマン、じんわりときたのがワンダーウーマン、お祭りだなあと思ったのがトランスフォーマーでした。その理由も下記に残しておきますが、一番見てよかったと思えたのが意外にもスパイダーマンでした。

「トランスフォーマー 最後の騎士王」
 お祭りである。以上。
 で、終わってしまったのでは書き始めた意味がない。ただ、このお祭り感と中身の繰り返しが本作の特徴となっている。毎回地球上の歴史的な事実を背景として、その裏にトランスフォーマーの闘争があったことになっている。今回は円卓の騎士アーサー王伝説である。今回正義のサイバトロンのリーダー・コンボイは、あろうことか地球人類に牙をむくのだが、その事情が故国・セイバートロン星を救うためだと、クインテッサ星人に騙されてのやむにやまれぬ事情による。おまけにセイバートロン星は地球にやってきて地球を食らおうとするし、クインテッサ星人によれば、なんと地球はあのユニクロンだという。そういえば地球上のあちこちに奇妙で巨大な突起物が飛び出していたが、あれがそういう意味なのか?

 作品の上ではコンボイがバンンブルビーの言葉によって意識を取り戻し、デストロンを撃退し、クインテッサ星人を倒して地球崩壊の危機を救うことになるが、この作品の人類は、どうあってもトランスフォーマー、もといサイバトロンやコンボイと仲良くなる素振りを見せない。もっとも前作でもひどい目にあってるので、仲良くやれといっても無理からぬ話ではあるが。1作目2作目と、元の車両の姿にロボット形態への移行、つまりトランスフォームのシーンは見ごたえがあったし、その車両の数の多さもあって、それ自体が見どころだったので、少なくとも昔のアニメのトランスフォーマーを見慣れた人々には求心力があったろう。だが本作ではコンボイやハンドやバンブルビー、そして初お目見えのホットロッドなど、登場するサイバトロン戦士も数が限られている。個人的にはホットロッドが登場してきたのはうれしい限り。字幕版で見たので、吹き替え版のホットロッドは石丸博也さんがいいなあと思いながら調べてみると、違うんだなこれが(泣)。英国貴族エドムンド・バートンの執事ロボットは、なんとヘッドマスターだっていうので、キャラクター的にはジェネレーション1を逸脱し始めている。最近読んだ「オール・ハイル・メガトロン」によれば、ヘッドマスターの技術は、人間とトランスフォーマーの技術的意識結合が必要とされ、それによって一部のトランスフォーマーが悲しい現実と戦っている話を読んだばかりなので、ちょっと気持ちは複雑だ。

 物語は繰り返し、自分たちがかつて楽しんだアニメとの齟齬もある。でも派手なCGのロボット戦は見ごたえがある。そんなお祭りムービーなのは間違いないのだが、どうやら続編がありそうで、そういう意味ではさらなる展開をまっていてもよさそうで、まだまだお祭りは続きそうだ。それでも人類とサイバトロンは仲良くしてくれそうにない。いまだ気になるのはいつガン形態にトランスフォームするんだろ、メガトロン。

追記
 バンブルビーの女子人気って一体何なんだろうと思うことがある。この映画シリーズにおける言葉はしゃべらないけど、にぎやかに擬音を発しながら、必ず人間側に寄り添う忠犬っぽさなんだろうけど。かつてのアニメシリーズにおけるバンブルビーなんか、見向きもされなかったのに。出世したなあ、バンブルビー。

「スパイダーマン ホームカミング」
 トビー・マグワイヤー版から数えて2度目のリブート。前作「シビル・ウォー」に登場したスパイダーマンが、「シビル・ウォー」以後に何をしてたかって話で、これまで以上にどこか青臭くって幼い感じのピーター・パーカーが、スパイダーマンとしての成長だけでなく、人間的に成長するあたりが見どころの映画で、なんかこうめっちゃ青春してるんだ。今年公開された「パワーレンジャー」も似たような少年少女の心の成長が描かれていただけに、これはこれでなかなかに見ているこっちがこっぱずかしい思いをさせられる映画だった。でもそれがいい。どうしてこれほどまでにクモ男もといスパイダーマンが「スパイディ」などといわれて愛されているのか?の答えの一端がここにある。彼がニューヨーク市民に愛される事情は、卓球の愛ちゃんやフィギュアスケートの浅田真央ちゃんなんかと全く変わらない。人々はスパイディの活躍を見て応援し、彼の成長をつぶさに見続ける。だからこそアメコミ「シビル・ウォー」において、スパイダーマンがその正体を明かしたことが、どれだけ驚きを持って受け入れられたかを想像してみてほしい。

 これまでの作品なら自分でスパイダーマンのスーツを自作するピーターだが、本作ではなんとアイアンマンスーツの技術をフィードバックしたスーツを、トニー・スタークが製作し、ピーターに受け渡している。最近読んだアメコミのスパイダーマンの初期エピソードを見る限り、そもそものスパイダーマンの装備って、ウェブシューターとライトぐらいしかないのだが、今回のスターク・インダストリー製スパイダースーツは、本当に多機能で、永遠の17歳・井上喜久子とおしゃべりできる機能がついている。なんなら同じ17歳同士で堀江由衣に交代することもできそうなほど、このスーツは優秀なのだが、なにせあのスタークが作ったものだから、多機能すぎてピーターには扱いきれない。それを見越して機能制限をつけていたのだが、それをピーターの友人が外してしまう。ここからが本作の見どころで、ピーターはスーツにもてあそばれる。スーツの機能を十全に生かしきれない。それでもやっと使いこなしたと思えば、今度はスパイダーマンとしての時間によって日常が奪われることになり、ピーターは日常とスパイディとしての時間を上手く切り離すことができない。もちろん原作にある部分でもあるから、ピーターのドジな部分も盛り込まれ、こういうあたりが愛される所以だろうと思わせる。だがスーツを着るだけでピーターはスパイダーマンになれるわけじゃない。戦う意思とそれに伴う力が、彼を追いつめていく。力のあるところに責任は宿る。それをどう行使するか? ピーターの悩みも葛藤もこれまでのシリーズで繰り返されたばかりでなく、本作ではピーターが当たり前に答えを出すことに、必要以上に時間を割いているところは、スパイダーマン好きの人には心地いいかもしれない。そのあたりのピーター・パーカーの等身大の少年らしい活動も恋も無鉄砲も、受け入れられる。

 今回のヴィランに選ばれたバルチャーは、「アベンジャーズ」(2012)での戦いによってもたらされた未知の技術を転用して作られた翼を使って、武器密売をしていた男であり、ピーターのガールフレンドの父でもあったという驚き。その上1989年の「バットマン」のブルース・ウェイン役と、まあ二重三重の驚きだ。マイケル・キートンは「ロボコップ」(2014)ではすべての元凶であるオムニコープ社のCEO役を演じていて、髪は薄くなってもご健在で何よりだ。原作アメコミのバルチャーには、ピーターとの関係性は薄いので、ちょいとやりすぎかなとは思うのだけど、親友の父親がグリーンゴブリンだったり、息子にまで怨嗟が及んでいたこれまでの話を考えれば、なんとなく仕方がないかと。

 さてリブートされた本作は、ついに一連のマーベル作品に組み込まれる。本作のラストシーンが「アイアンマン3」のラストを承る形で、スタークとポッツの結婚というハッピーエンドで飾られるあたりも、シリーズ一連の映画を見続けている人にとってはうれしい誤算だったろう。アイアンマンとの共演もあったし、ところどころ内輪ウケみたいなキャプテンアメリカのシーンが挿入され、暗い気持ちにならないで済む映画なのは、ありがたい。「シビル・ウォー」までがなかなかにしんどい話が続いたので。
 そんなホッとできるような「スパイダーマン ホームカミング」は、これまでのリブート前のスパイダーマンよりもグッと観客側に近寄ってきた印象がある。まさに故郷に帰ってきた心象風景。おかえり、スパイダーマン。

「ワンダーウーマン」
 今年の夏の映画の中で、最も期待していた作品がこれでした。そしてその期待は存分に報われた。ワンダーウーマンことダイアナの誕生の秘密、そして現代社会に登場した最初のエピソード、強さの理由、兵装類の出自に至るまで、彼女の個人情報のあらん限りを映画に詰め込まれており、まるで「キャプテンアメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー」(2011)を思い出させる。あの映画が好きな人にとっては、たぶん満足できる作品じゃないかと思われる。やっぱりオリジンというか起源にさわるというのは、なんともいえず気持ちが昂る。

 とはいえ、諸手を挙げて喝采というわけにはいかないのはいつものこと。
 ワンダーウーマンことダイアナの出自に関しては、神話を題材にしている。その思考も出自同様に神話の延長線上にあり、マーベル・ヒーローズやDCのヒーローたちすべてを含めても、極めて純粋な正邪の理をお持ちの姫君なのがダイアナの人となりであり、スーパーパワーの源でもある。その神にも等しいスーパーパワーがこの世界(原典ではより明確に「男の世界」と呼ばれている)に放り出された時、彼女の人となりの根本にかかわる正邪の理が通用するのか? これがこの世界に出てきたダイアナがぶつかる壁であり、世の中の複雑さはダイアナにはいかんともしがたい複雑さでなくては、彼女の心の成長は望めない。本作における最大の問題は、現実世界の複雑さにより問題意識にさいなまれたダイアナが、何を起点として自身の揺らぎない正邪の理を持って判断し始め、戦う理由を何に求めるのかだ。

出自たる神話に基づき、戦の神アレスの関与を疑うダイアナだったが、アレスの言葉を信じるなら、アレスは人間の愚かな部分に手を貸しただけ。だがダイアナは人間の善の部分に光を見出してアレスを撃退するという物語になっている。ダイアナが人間の善悪を見出したのはスティーブ・トレパーの人格からだが、彼とてその仲間とて、時代が時代だけにすべてが善性で一貫しているわけではない。その中に人間の善性を見出すには、あまりにも人間が欲得にまみれすぎていて、あの人間たちの中でダイアナが人間の善性を見出すには、あまりにも悪に染まりすぎている舞台ばかりが登場する。最大の見せどころが中盤の小さな街を必死に取り戻そうとするダイアナにトレパーたちが追従し、ついには街を奪還する件だとしたら、それをしてダイアナが人間の善性を見出したとするには、それ以外の舞台設定があまりにも悪意に満ちすぎている。

都合のいいことに、ダイアナの持つ「真実の投げ縄」が、人間の嘘を見破るとしても、場面ごとに彼女がそれを使用して真偽を確かめるシーンがあるうっとおしさを思えば、なくてよかったと思いはするが、ダイアナが揺らぎなく人間の善性を信じてしまうために、「ダークナイト」シリーズにおいて複雑な背景をもとにゴッサムの自警団を自認するバットマンや、信じるべき人々がいながらも、人類全体までは信じきれない「マン・オブ・スティール」のスーパーマンなどと比較すると、大らかな時代のアメコミを抜け出せないワンダーウーマンではなかったかと思うのだ。活劇として十分に楽しく、なによりガル・ガドットの美しいワンダーウーマンをいつまでも見惚れていたいと思う映画なので、もうそれだけで十分におつりがくるほどの出来だけに、そうしたダイアナと人間の友好の動機が「最初に出会った男への愛」だとするには、あまりにもロマンス要素が少なかったりするし、そうでないならあまりにも欲得にまみれている近代世界は、ダイアナを活躍させる舞台としていかがなものだったろうかという疑問が残る。とはいえあの原作をここまでリファインしたなあというのも、「ワンダーウーマンアンソロジー」を読んだ今では素直な感想ではある。

さて本作の続編がスタンバイ中とのことだし、何より前作「バットマンVSスーパーマン」の後を受けての「ジャスティスリーグ」がこの後に控えている。ガル・ガドット演じる美しすぎるワンダーウーマンも大活躍とのこと、DCもマーベルに負けずに作品を連ねて、さらなるワールドを広げていくのが、今から楽しみだ。

おまけ「ファンタスティック・フォー」シリーズ
 1961年にアメコミシリーズ初のチームとして誕生した「ファンタスティック・フォー」。日本では「宇宙忍者ゴーレム」としてアニメシリーズとして紹介され、子供時代になじんだ人も多い作品だ。そもそもは宇宙旅行で宇宙線を浴びてしまった4人が、それぞれに獲得した特殊能力でヴィランたちと戦う物語である。その最大の特徴は、4人の能力や出自よりも、バットマンやスパイダーマンのような正体不明の自警団ではなく、公に国から認められたスーパーヒーローチームであることだ。
 
 映画としては1994年に高名(笑)なロジャー・コーマンのプロデュースで映像化されたものがあるそうだが、これは未見。そして2005年と2007年に実写映画化されたものと、2015年にリブートされた作品を見た。アメコミの歴史をまとめたある書籍によれば、「ファンタスティック・フォー」は、他のアメコミ作品に比べてなかなか人気が出ず、「呪い」とまで呼ばれている。どうもその理由が気になったので、逆にどうしても見てみたくなった。

 でね、見てみたんですけど。決して悪い作品じゃないんですよ、どの作品も。ただ問題なのは、あの「ダークナイト」シリーズや「アメージングスパイダーマン」「ウオッチメン」といった、陰影の深い物語に、キャラクターを掘り下げていくような作品を見た後では、内容が明るく軽薄に見えてしまうのが、難点といえば難点だろう。むしろそういった重苦しい作品群との生存領域を分けたと思うなら、決して評価は悪くないはずだ。だがMr.ファンタスティックとインビジブル・ウーマンの恋と結婚が物語の経糸になっている2005年と2007年の作品は、たとえジェシカ・アルバ(「ダークエンジェル」の主演女優)を登場させて、コメディチックに作っても、作品に漂う空気が弛緩しているのが解ってしまう。何より最初の出動で人助けを行ったために、すでに町や市民が公認してしまうヒーロー像も、正体不明の自警団の自認するヒーローたちに比べれば、いっそ呑気に見えてしまう。

 さらに2015年のリブートでは、彼らの出自に再度手を入れてしまい、宇宙線による体の異変を、物質転移装置の事故へと改変する。しかも彼らに手を差し伸べたのはアメリカの軍部であり、彼らの能力に目をつけて軍事利用される彼らが、同時にヴィランと化したドゥームを退けて、どうやって自由と公認を勝ち取るかという物語となった。恋愛至上的な前シリーズの影響を極力排し、積極的に人間の突然変異を悪い方へと誘っておきながら、その能力を善へと導き、さらにはアメリカ国内での自由と公認を勝ち取る物語へと深化させたことは瞠目に値する。しかし自分たちの居場所を確保するというあたりの呑気さのマイナスがぬぐえない。4人の出自に手を入れても、自由と公認を手に入れる艱難辛苦を描いても、地涌と公認が手に入ってしまえば、そこに弛緩した空気が流れるのが不思議なほどで、そもそも彼らが手に入れた「自由と公認」という立ち位置こそが、作品の人気を貶めているという感じになっている。

 筆者は日本のヒーローの姿をあたり前のように享受しているから、正義をなすものが人々に受け入れられることに何ら疑問を持たないわけで、ファンタシティック・フォーの4人が当たり前のように自由と公認を勝ち得ていることに、マイナス要素を感じない。だが比較対象として他の正体不明の自警団を自認するヒーローを見ていると、とてもじゃないけどファンタシティック・フォーの弛緩した空気感を肯定はできない気持ちも、わかりはする。だがそうした自警団とのすみわけを考えれば、こういうアメコミヒーローがあってもいいし、人の中にある善意を信じるのなら、疑問を持たずに正義をなすことの何がいけないのか?という疑問もある。人の中にある正邪の立ち位置が揺らぐ現代社会において、仮面ライダーを名乗るものが悪の発露をして正義に戦いを挑むシチュエーションの、なんと魅力的なことか。その屈折した思いこそ、現代社会が抱える闇の部分に抵触するからこその快感というのが確実にある。だから個人主義を抱えて激突するライダーがいていいし、その闇がヴィランを理論武装させ、自警団員の心を揺さぶる物語は、アメコミヒーロー映画をリアルに演出する。「仮面ライダー」という正義がショッカーという悪から生まれたように、人の血を求める吸血鬼の中から「ブレイド」というヒーローが生まれたように。光あるところに影がある。悪があるから正義が生まれる。そんなスパイラルの中には、戦隊シリーズやファンタシティック・フォーがあってもいいのではないか。彼ら4人の物語は商売としては不向きであったが、その存在は必然であったと感じる。
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