人、集うところに「神」は宿る~「かんなぎ」最終巻に寄せて~

 先月末にて「かんなぎ」DVD最終巻が発売された。事前情報より、テレビ未放映となる14 話がおまけにつくとのことだが、この件自体はどうでもいい。いや、昔 8mmフィルムで自主製作映画を撮ったことがある身としては、いろいろとつっこみたいことはあるのだが、今回の趣旨は、「かんなぎ」本編に対して、いまさらながら蛇足的かつどうでもよさげな話が出来ればいいかなと思っている。それは「かんなぎ」の主人公であり、物語のキーでもある「ナギ」の神性についてだ。

 最初にぶっちゃけておくが、実は「かんなぎ」本編に対して、「ナギ」の持つ神性は、正直どうでもいいのである。その証拠に、本作の監督である山本寛監督の言によれば、「かんなぎ」の物語は、あくまで「昭和テイストのラブコメ」であるのだ。だからこそ「ナギ」が「神」であることの意味性は、物語中で問われても回答を出していない。それは監督自身が、オーディオコメンタリーなどでも語っていたように、完結していない漫画を取り扱うに当たり、できるだけ漫画の地雷となるような部分を回避して、この物語が作られているからである。断じて言えば、アニメ版「かんなぎ」の物語において、「ナギ」の神性は、「ナギ」の二面性と、仁に対する居丈高な態度と仁に対して心を許す態度の、性格上のコントラストを出す、つまりは俗に言う「ツンデレ」の部分の設定の意味しか持たない。だからこそ、某大手巨大掲示板などで、ナギの神故に処女性が問われることなどは、彼女を語る上で、まったく無意味な行為だと思われるのだ。
 
 だがそれとは別にあえて突っ込もう。「かんなぎ」における「神」とは何か?

 第1幕冒頭での「ナギ」の顕現のシーンでは、仁が友人の大鉄から譲り受けた神木を用いて掘り出した巫女を象った人形が、仁宅の庭にわずかに残る土の部分に根を張り、人形が人間大になって顕現する。このこと事態は物語の開巻によるインパクトと共に、神木とナギの親密性を描いている。つまりナギはどこでも顕現し得たわけではない。依り代としての神木と、依り代が大地に根付いていないと顕現できなかった可能性がある。依り代と大地。これがそもそも区画整理で合祀されるもともとの神社にまつられていた、その土地に住み、周囲を護る「土地神」がナギである証拠である。だがこれはナギの由来でしかない。

 ナギは「けがれ」の浄化を、土地神でる自分の使命であることに気がつく。それは初めて見たテレビに写る、魔法少女物のアニメに触発されたからに過ぎない。顕現してすぐのナギには、「産土神」である自覚とともに、ウブコ達に及ぼうとする「けがれ」という名の災厄から、ウブコを守るという使命感しかない。情報はこれだけだ。ナギが自分が何者であるかという、アイデンティティを喪失していることへのジレンマは、このときすでに内在している。ところがこの神様は、仁にまつわる日常を追うことことが楽しくて、自らをかえりみることをしない。この時点でナギの神性はすでに失われている。外面的には、彼女は仁という宿主に寄生した居候でしかない。つまり仁とナギの関係は、「ひょんなことから同棲することになった高校生の男女」となりはてている。そしてナギの喪失したアイデンティティを再獲得しようとしてドタバタする、これが「かんなぎ」クライマックス直前までの物語の骨子になる。

 物語のクライマックスに相当する第11幕から13幕の流れは、すっかり日常の中で忘れていたナギ自身のアイデンティティを、仁が問いただすところから始まる。仁はナギの正体について思い悩むし、時折見せる神格の部分と、日常のあまりに俗な人間的な部分に翻弄されている。思春期の仁にとっては、さぞかし魅力的に見えたことだろう。仁がメイド喫茶に行く第6幕では、普段と異なる衣装を着たナギの姿にどきどきを隠せない仁が出てくる。個の時の仁は、衣装を通してナギの魅力を再発見している。それも神ではなく女の子としてのナギの魅力をだ。そしてナギの正体と自分のナギへの想いが混濁してしまった結果、彼女を遠ざける結果となる。しかし仁の幼なじみである「つぐみ」の説得で、仁は自分の素直な気持ちを取り戻し、なんであれナギのすべてを受け入れることで、元にさやに収まるのである。このときナギの正体を知らないので当然なのだが、つぐみが仁を説得する言葉は、あくまでもナギを、普通の女の子として扱っている。受け手である仁は、その言葉の中にナギの二面性をもひっくるめてしまう発想を得たことにより、ナギが受け入れられる土壌となるのだ。この展開は、「かんなぎ」の物語のキーワードである「神」の部分を完全にスポイルしているのだが、前述の通り「昭和のラブコメ」であるこの物語の構造としては、まったく問題ないことになる。

 すこし話がずれるようだが、先日上野に「阿修羅展」を見に行った。ものすごい人出であったが、30分ほどの待ち時間で入館できた。そして博物館の奥まった一室に、阿修羅はおられた。その周囲にいる人々は、まるで美形のアイドルを見つめるかのようにうっとりし、しかし神に祈るがごとき熱意を感じた。神への畏敬の念。そこはまさにそういった言葉に集約できるようであった。

 この阿修羅を取り巻く状況と同じようなシーンが「かんなぎ」の本編にある。第5幕「発現!! しょくたくまじんを愛せよ」でのBパートである。
 日常的に仁の学校に登校するようになったナギが、学校の教師にとらわれるのだが、その人気故に、ナギ自身の神力が増描写がある。オープニングのダンスアニメを引き合いに出すまでもなく、ナギは学校のアイドル的な存在となる。そして皆の注目を集め、だれからも愛される。そしてナギ自身は、そんな生徒達をウブコと同義として「かわいい」という。そんなウブコ達を護るため、ナギはけがれを退治することが必要になる。
 この関係性はまさに「信仰」と呼んでよいかも知れない。人々がナギをアイドル視し慕う一方で、ナギはけがれを退治し、災厄を防ごうとする。この1対1の関係性は、まさに「信仰」の形態であるといえる。

 例を挙げてこれを検証してみよう。
 たとえば「かんなぎ」のシリーズ構成と脚本を担当した倉田英之氏が、同じように脚本を担当した「かみちゅ」では、中学生にして神様の力をもっている女の子「ゆりえ」の物語だ。ゆりえはどこにでもいる普通の中学生だ。どちらかといえばどんくさく、勉強も苦手。でも人並みに好きな男の子がクラスにいる、そして小柄でかわいらしい娘だ。街の人々は彼女を「神様」として認識しているが、別段特別視してはいない。神という存在が日常に普通にある存在だ。それはあなたの地元の神社で、毎年お祭りが行われることと、たいして変わらない事なのだ。ゆりえは街を街の人々を愛し、街の人々はゆりえを神として認めている。ときおりゆりえが神の力を行使しても、すべてがうまくいくわけではないのだが、街の誰もがゆりえがしでかす結果を納得ずくで享受している。ここにも心優しい信仰の形態が見て取れる。
 では「デスノート」を見てみよう。こちらは名前を書けばその人は死ぬという能力のノートを持った夜神月が、その力を使って神になろうとする物語だ。物語はあくまで月とLという二人の天才による、人の命をかけた犯罪ゲームとなる。しかし神になろうとした月の末路は、悪を裁くという名目で、人の命を軽視したことと、デスノートの能力を、我欲のために用いた結果として、月を飲み込む結果となる。人々は月を神だとあがめるが、月は人々のために何をかしたつもりで、何もなさなかったことになる。これは信仰が集められなかった例だ。

 以上のような2つの例を見てもわかるように、「神」とは人々の間に「信仰」という名の契約が成立していればいいことになる。これは「アイドル」とか「カリスマ」という単語に置き換えたっていい。つまるところナギは間違いなく「神」である証拠を、本人の意図しない外部条件から勝ち得たのである。それでもナギは、喪失したアイデンティティを探して自己を見失う。まことにもって「神」とはあやふやな存在である。

 その証拠に信仰を「金」に置き換えることができる現代社会では、まさに「紙(神?)一重」とも言えるのではないだろうか?
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テーマ : アニメーションの評論・感想
ジャンル : アニメ・コミック

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