”青臭さ”にバンザイ!~冥王計画ゼオライマー~
自分の高校時代などを振り返ると、若いなとか、青いなとか思う事があると思う。8mm映画を作ってきた自分にとって、原作を担当したり、監督をしたりする作品を今更ながら見ると、とんでもなく恥ずかしい。会社にいても、昔自分が担当した業務の報告書を読んで、一人赤面することだってあった。
大変不遜なことは承知しているが、こうしたことと同じ目線で見ていて、つい”青いな”と思ってしまう作品がある。それが今回取り上げる「冥王計画ゼオライマー」である。
<ゼオライマーの”青臭さ”の実態>
OVAとして企画製作された「ゼオライマー」。1988年~1990年にかけて、全4話で構成された物語である。基本的に原作である「ちみもりお」による漫画より、18禁部分を抜いた形で作品化されている。秘密結社「鉄甲龍」が世界征服を目指して行動を開始。「八卦ロボ」と呼ばれる巨大ロボットを操り、侵略の準備を着々と進めている。時を同じくして、日本の秘密防衛組織ラスト・ガーディアンによって、一人の少年が拉致される。その少年はラストガーディアンの氷室美久とともに、鉄甲龍から持ち出された八卦ロボの1体である「天のゼオライマー」のパイロットになる少年であった。少年の名は「秋津マサト」。そして彼の出生の謎にせまりつつ、世界の命運をかけた壮絶な戦いが繰り広げられるというのが、本作の基本ストーリーである。
まずもって”青い”と感じるのは、このストーリーである。この1980年代末期という時期においては、ロボットアニメが激減した時期である。それは1979年に登場した「機動戦士ガンダム」やその後に展開する「装甲騎兵ボトムズ」、「超時空要塞マクロス」といった作品群により、「戦争」を背景としたいわゆる「リアルロボット」ものが幅をきかせていた10年のあとの時代である。だから明確な「悪の組織」や「悪の巨大ロボ」などやや特撮チックに見えて、少しうがった目で見られてしまいそうな時期だった。そうした状況下に真っ向勝負を挑んだ作品だ。そうした心意気は理解できるが、それも青臭いとはいえまいか?
また話の構成要素である「秋津マサトの出生の謎」は、そのまま八卦ロボに乗る八卦衆のメンバーの出自である。その正体は、ゼオライマーの最強武器である「次元連結システム」の生みの親、木原マサキのクローンであった。そして八卦衆もマサキのクローンであり、人格的な崩壊因子をプログラムされた悲劇の人間達である。つまるところこの「ゼオライマー」という物語は、「木原マサキ」の「木原マサキ」による「木原マサキ」のための戦いだったのだ。木原という男は、世界を舞台に、自分のクローンという駒を使って、ゲームをしていたらしいのだ。このなにか達観したような上から目線の設定が、いかにも青臭いではないか。小難しいことを考えたいのはわかるけどさ。
しかも劇中に描かれる美少女である氷室美久は、成長シリコンで作られたアンドロイドであり、なおかつゼオライマーの「次元連結システム」そのものである。ゼオライマーが起動する際に、彼女はその奇怪な姿を現し、ゼオライマーのシステムの一部となるのだ。非常に気味の悪いシーンである。こうしたシーンも、美少女を不気味ななにものかに仕立て上げることで、現行作品と一線を画したと言いたげで、青臭さを感じずにはいられない。
その青臭さは結局本作を作っているスタッフに起因する。監督は平野俊弘氏、脚本が会川昇氏、作画監督に菊地通隆氏だ。おそらく当時30歳そこそこの若いメインスタッフで本作は作られている。その後の彼らの活躍を知れば、本作が彼らの仕事の、あくまで序章に過ぎないことがわかるだろう。彼らが本作にかけた情熱は、まさしくこの作品を青臭くしているのだ。
<青臭くって何が悪い!>
では、「青臭い」のはいけないことなのか? そりゃ自分が作ったフィルムなんて見た日にゃあ、善し悪しを通り越してひたすら恥ずかしいだけだ。お願いだから触れないと思う。だが「ゼオライマー」に関しては、むしろこの「青さ」がすばらしいスパイスとなっている。
一例を挙げれば、そのストーリーである。実のところ、鉄甲龍の世界征服は、国際電脳という隠れ蓑の国際会社により、通信やエレクトロニクスの世界が押さえられており、莫大な財が築かれ、なおかつ実態としての世界征服を成し遂げたようにすら見えるのだ。その隠れ簑を気持ちよく放り投げた彼らが何をしたかと言えば、ゼオライマーの奪還のために日本に侵攻したぐらいである。終盤に世界と一緒に破滅するようなそぶりを見せるものの、実はゼオライマーに倒されるのを待っていただけである。つまり、鉄甲龍はなーんにもしてないのである。だが世界征服を企む秘密組織が、巨大企業を隠れ蓑にしているという大風呂敷が、この作品世界を、現実世界の地平に根付かせようとしている。
また八卦ロボを操る八卦衆のトラウマが、すべて人間の持つ生理に基づいているのがたまらなくいい。まるで「ビリーミリガン」の多重人格を、幾人の人間として眺めているような感覚すら受ける。同じ顔の姉妹が愛憎半ばにしながらともに滅びる話、仮面をつけなくてはいけなかった、影武者として生きた男の死、愛も憎しみの裏切りも、およそ人間が持つ感情すべてが、一人の人間の手によりプログラムされていた皮肉な事実。どこか冷めた視線で、人間が遺伝子の乗り物であるかのように眺めている大人びた視線は、「戦争のドラマ」に慣れた目で見ても、人間という存在そのものの皮肉を感じずにはいられない。そしてその皮肉が、少年の成長と共にすべて無に帰すラストシーンに、やはり心を鷲掴みにされてしまうのだ。
そしてなにより巨大ロボットの活躍するシークエンスには、スタッフの並々ならぬこだわりが感じられる。下からあおるライトとカメラ、明確にライティングを意識した陰影、ロケハンまでおこなった背景美術の精緻さ、極小の動きと派手な効果の作画と画面構成、なんといってもそこにいるだけで重量感や存在感を感じることができるロボットのデザイン、「月のローズセラヴィー」「風のランスター」「天のゼオライマー」などの2つ名も、かえってかっこよさを助長する。毎回のOPに登場する八卦ロボの背後に漢字の名前が書かれているシーンでは、その影すらも強い印象に残しながら、八卦ロボの存在感に見ほれるばかりだ。このブログでは毎度おなじみの氷川竜介氏も、多くの書籍で、本作のロボットバトルシーンでの特殊効果について熱く語られていらっしゃる。ぜひごご一読することをおすすめする。
「青臭さ」は「若さや情熱」の2つ名である。それが「冥王計画ゼオライマー」を見たときに感じる印象だ。それは決して悪いことじゃない。むしろ見ているこちら側の気持ちを若返らせてくれるエナジーに満ちている。誰も2回目からはできないからね。はたして私も後の世に何かを残す仕事ができるだろうか?
<参考>
・不滅のスーパーロボット大全((株)二見書房)p.200-206
・世紀末アニメ熱論(氷川竜介著 キネマ旬報社)p.146-159
・SFアニメがおもしろい(アスペクト)p.168-173
大変不遜なことは承知しているが、こうしたことと同じ目線で見ていて、つい”青いな”と思ってしまう作品がある。それが今回取り上げる「冥王計画ゼオライマー」である。
<ゼオライマーの”青臭さ”の実態>
OVAとして企画製作された「ゼオライマー」。1988年~1990年にかけて、全4話で構成された物語である。基本的に原作である「ちみもりお」による漫画より、18禁部分を抜いた形で作品化されている。秘密結社「鉄甲龍」が世界征服を目指して行動を開始。「八卦ロボ」と呼ばれる巨大ロボットを操り、侵略の準備を着々と進めている。時を同じくして、日本の秘密防衛組織ラスト・ガーディアンによって、一人の少年が拉致される。その少年はラストガーディアンの氷室美久とともに、鉄甲龍から持ち出された八卦ロボの1体である「天のゼオライマー」のパイロットになる少年であった。少年の名は「秋津マサト」。そして彼の出生の謎にせまりつつ、世界の命運をかけた壮絶な戦いが繰り広げられるというのが、本作の基本ストーリーである。
まずもって”青い”と感じるのは、このストーリーである。この1980年代末期という時期においては、ロボットアニメが激減した時期である。それは1979年に登場した「機動戦士ガンダム」やその後に展開する「装甲騎兵ボトムズ」、「超時空要塞マクロス」といった作品群により、「戦争」を背景としたいわゆる「リアルロボット」ものが幅をきかせていた10年のあとの時代である。だから明確な「悪の組織」や「悪の巨大ロボ」などやや特撮チックに見えて、少しうがった目で見られてしまいそうな時期だった。そうした状況下に真っ向勝負を挑んだ作品だ。そうした心意気は理解できるが、それも青臭いとはいえまいか?
また話の構成要素である「秋津マサトの出生の謎」は、そのまま八卦ロボに乗る八卦衆のメンバーの出自である。その正体は、ゼオライマーの最強武器である「次元連結システム」の生みの親、木原マサキのクローンであった。そして八卦衆もマサキのクローンであり、人格的な崩壊因子をプログラムされた悲劇の人間達である。つまるところこの「ゼオライマー」という物語は、「木原マサキ」の「木原マサキ」による「木原マサキ」のための戦いだったのだ。木原という男は、世界を舞台に、自分のクローンという駒を使って、ゲームをしていたらしいのだ。このなにか達観したような上から目線の設定が、いかにも青臭いではないか。小難しいことを考えたいのはわかるけどさ。
しかも劇中に描かれる美少女である氷室美久は、成長シリコンで作られたアンドロイドであり、なおかつゼオライマーの「次元連結システム」そのものである。ゼオライマーが起動する際に、彼女はその奇怪な姿を現し、ゼオライマーのシステムの一部となるのだ。非常に気味の悪いシーンである。こうしたシーンも、美少女を不気味ななにものかに仕立て上げることで、現行作品と一線を画したと言いたげで、青臭さを感じずにはいられない。
その青臭さは結局本作を作っているスタッフに起因する。監督は平野俊弘氏、脚本が会川昇氏、作画監督に菊地通隆氏だ。おそらく当時30歳そこそこの若いメインスタッフで本作は作られている。その後の彼らの活躍を知れば、本作が彼らの仕事の、あくまで序章に過ぎないことがわかるだろう。彼らが本作にかけた情熱は、まさしくこの作品を青臭くしているのだ。
<青臭くって何が悪い!>
では、「青臭い」のはいけないことなのか? そりゃ自分が作ったフィルムなんて見た日にゃあ、善し悪しを通り越してひたすら恥ずかしいだけだ。お願いだから触れないと思う。だが「ゼオライマー」に関しては、むしろこの「青さ」がすばらしいスパイスとなっている。
一例を挙げれば、そのストーリーである。実のところ、鉄甲龍の世界征服は、国際電脳という隠れ蓑の国際会社により、通信やエレクトロニクスの世界が押さえられており、莫大な財が築かれ、なおかつ実態としての世界征服を成し遂げたようにすら見えるのだ。その隠れ簑を気持ちよく放り投げた彼らが何をしたかと言えば、ゼオライマーの奪還のために日本に侵攻したぐらいである。終盤に世界と一緒に破滅するようなそぶりを見せるものの、実はゼオライマーに倒されるのを待っていただけである。つまり、鉄甲龍はなーんにもしてないのである。だが世界征服を企む秘密組織が、巨大企業を隠れ蓑にしているという大風呂敷が、この作品世界を、現実世界の地平に根付かせようとしている。
また八卦ロボを操る八卦衆のトラウマが、すべて人間の持つ生理に基づいているのがたまらなくいい。まるで「ビリーミリガン」の多重人格を、幾人の人間として眺めているような感覚すら受ける。同じ顔の姉妹が愛憎半ばにしながらともに滅びる話、仮面をつけなくてはいけなかった、影武者として生きた男の死、愛も憎しみの裏切りも、およそ人間が持つ感情すべてが、一人の人間の手によりプログラムされていた皮肉な事実。どこか冷めた視線で、人間が遺伝子の乗り物であるかのように眺めている大人びた視線は、「戦争のドラマ」に慣れた目で見ても、人間という存在そのものの皮肉を感じずにはいられない。そしてその皮肉が、少年の成長と共にすべて無に帰すラストシーンに、やはり心を鷲掴みにされてしまうのだ。
そしてなにより巨大ロボットの活躍するシークエンスには、スタッフの並々ならぬこだわりが感じられる。下からあおるライトとカメラ、明確にライティングを意識した陰影、ロケハンまでおこなった背景美術の精緻さ、極小の動きと派手な効果の作画と画面構成、なんといってもそこにいるだけで重量感や存在感を感じることができるロボットのデザイン、「月のローズセラヴィー」「風のランスター」「天のゼオライマー」などの2つ名も、かえってかっこよさを助長する。毎回のOPに登場する八卦ロボの背後に漢字の名前が書かれているシーンでは、その影すらも強い印象に残しながら、八卦ロボの存在感に見ほれるばかりだ。このブログでは毎度おなじみの氷川竜介氏も、多くの書籍で、本作のロボットバトルシーンでの特殊効果について熱く語られていらっしゃる。ぜひごご一読することをおすすめする。
「青臭さ」は「若さや情熱」の2つ名である。それが「冥王計画ゼオライマー」を見たときに感じる印象だ。それは決して悪いことじゃない。むしろ見ているこちら側の気持ちを若返らせてくれるエナジーに満ちている。誰も2回目からはできないからね。はたして私も後の世に何かを残す仕事ができるだろうか?
<参考>
・不滅のスーパーロボット大全((株)二見書房)p.200-206
・世紀末アニメ熱論(氷川竜介著 キネマ旬報社)p.146-159
・SFアニメがおもしろい(アスペクト)p.168-173
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