非富野ガンダムの戦争観

 富野由悠希監督が製作した「機動戦士ガンダム」は、架空の歴史「宇宙世紀」を舞台にした物語である。だがこの宇宙世紀を舞台とせず、富野監督ではない監督の手により製作された「ガンダム」シリーズがあるのは周知の通りである。
 富野監督の手によるガンダムシリーズは、すべて人間が引き起こした「戦争」を背景に、どうしても戦うことを選ぶしかなかった主人公達をめぐる、人間ドラマとして見ることができる。きわめて限定的で、しかも過酷な状況に追いやられた主人公達が、一つ一つ決断を迫られながら、必至に戦う姿。それが富野監督によるガンダムシリーズの醍醐味の1つである。そもそもそれは、ガンダム登場以前のロボットアニメに対するアンチテーゼであり、ロボットが戦うことを自然の成り行きの中で表現するための方便であったはずだ。だから作品中で富野監督は「戦争の是非」を問うたりしていない。その物語に秘められたのは、人間はよりよく変われるかもしれないという「ニュータイプ」の考え方と、過酷な状況の中で生き残ろうとする人間が、「生」を求めることを肯定した「人間賛歌」だろう。
 その一方で、宇宙世紀を舞台にしないいわゆる「非富野」ガンダムでは、戦争をどのようにとりあつかってきたのだろうか?

 1994年「機動武闘伝Gガンダム」
 1995年「新機動戦記ガンダムW」
 1996年「機動新世紀ガンダムX」
 2002年「機動戦士ガンダムSEED」
 2004年「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」
 2007、2008年「機動戦士ガンダム00」

 以上が、現在までにTV放送されている非富野ガンダム作品である。
 「機動武闘伝Gガンダム」は、地球上の各国家がそれぞれコロニー国家となっている世界を背景に、各国が1人のガンダムファイターを選出し、4年に1度開催される「ガンダムファイト」で勝ち残ったものの国に、4年間の覇権を与えるという「代理戦争」をしている話だ。物語はこの代理戦争そのものを戦い抜く主人公の視線で進む。ここでは「戦争の是非」などを問うてはいない。ただし第1話から描かれているのは、ガンダムファイトの戦場として利用されている地球の荒廃した姿だ。これは戦争の舞台となった国や地域の姿であるのだが、残念ながら戦場に住む人間の主観ではなく、戦争を行う側の主観で描かれてしまっている。では「代理戦争」の虚偽性を問うているかと思えば、そうでもない。最終回ではデビルガンダムの撃滅に立ち上がったガンダムファイター達の団結が、いつか国家間の争いを超えて昇華するかっも知れないという漠然とした希望だけを描いて幕を閉じている。まあそもそも「戦争」を描かず、ロボットバトルを「武闘」と読み替えてスタートした本作であるので、「戦争」にはアンタッチャブルな作品であった。

 「新機動戦記ガンダムW」は、前作「Gガンダム」では扱わなかった「戦争」に踏み込もうとした。「ガンダム」とは、反抗勢力の象徴である。それは「ターンエーガンダム」で、コレン・ナンダー軍曹が言ったことである。そして「ガンダムW」は、まさに反抗勢力の象徴として作られる。この物語は地球圏統一連合が、コロニー居住者の主権を認めず、地球から宇宙を支配しようとした世界を背景に、コロニー側の反意の象徴として作られた5機のガンダムが戦う物語だ。その戦いは常に「レジスタンス」だった。まったく色気もないモビルスーツを数だけ作って並べて悦に入るような連中を敵に、隠密のように行動し電撃的に敵を叩くやり方で、連合あるいはOZのMSを屠っていくガンダム。
 その行動は、指示を出す上司がいても、純粋に自分の行動の正義を信じ、計画遂行のために自爆すらいとわない少年パイロット達がおこなっている。作品の人気は、この5人の少年に集中する。それも当然だ。物語はこの少年達が純粋すぎるが故に、戦争にまきこまれ、傷つき悩み、それでも勝利を信じて歯を食いしばりながら奮闘する物語だからだ。ことここにおいて、戦争の是非は問えない状況になってくる。ただ少年達を追い込むための装置でしかないからだ。
 この物語で、ガンダムは特別あつらえのMSであり、OZが使用するMSよりも圧倒的に性能の高いMSとして描かれている。これによりロボットバトルのシーンは、ロボットのガチバトルではなく、一方的にOZのMSが破壊されているシーンの連続となる。たとえガンダムが壊れるシーンでも、それは基本的に自爆か、さもなくば圧倒的な物量差でガンダムが競り負けるシーンである。ここにロボットアニメとしての爽快さは全くない。だが同時に局地戦での勝敗は決しても、全体の軍事バランスは崩れることはない。だから少年達のガンダムは、自然と追い込まれる。自分たちの行動の無意味さを悟るしかない。ここで描かれる戦争は、レジスタンスとしての抵抗の限界を知らしめる事である。「機動戦士ガンダム」で、連邦のウッディ大尉がアムロに奇しくも言った「ガンダム1機で戦争の勝ち負けが決まるというものではない」ことを、物語で示したことになる。

 「機動新世紀ガンダムX」は、地球とコロニーの間に怒った戦争が終わった後の地球で、必至に生きようとする少年が、ガンダムに出会い、仲間と出会い、大好きな女の子を助けたいがために、大人達の戦争の世界をのぞき込む物語だ。物語当初はまるで「戦闘メカ ザブングル」のような西部劇調のスタートを見せた本作である。当初はガンダム自体の争奪戦を繰り返しながら、戦後の世界がどうなっているのかを主人公ガロードに見せる物語である。だが彼の目には愛する少女・ティファの姿を通してでしか世界を見ていない。そのことが現実として彼自身が理解するのは、ティファが宇宙に住むコロニー側に拉致されてからだ。ここでガロードははじめてこれまでの経験で得たことをその身の役に立てていく。ガロードが旅をしてきた意味を、大切な少女をなくして初めてわかるのだ。そして仲間の助力を得て、彼は宇宙に上がる。そこには終わったはずの戦争の勝敗を信じないまま、亡霊のように生きている戦争に群がる大人達の巣窟であったのだ。
 そして大人達は「ニュータイプ」の力を欲して戦っていた。戦争の理由はじつに他愛もないことだ。コロニー側は「ニュータイプ」の力で、地球をも支配するための方便を得るためであり、地球側は「ニュータイプ」の力を手に入れたコロニー側の力を恐れていたからだ。そして実態として「ニュータイプ」の力などないというラストが待ち受ける。なんと戦争の無意味なことか。結局はコロニーと地球側の双方の軍の間で暗躍していたフロスト兄弟を、すべての悪意としてガロードは倒すことになる。これでこの戦争は終結する。
 この物語で語られた「戦争」は、他愛もないことで始める大人の「都合」として描かれている。特に後半の戦争観は、その意味が強い。こんな軽い取り扱いになってしまった事情は、主人公ガロード・ランの成長にこそ、物語の主軸が置かれていたからだ。だからこの戦争の事情も、ガロードの主観で描かれている。実態としてはもう少し政治に力点が置かれた説明の仕方もあったろうと思う。だがガロードの頭で理解できる内容は、自分たちの生活をおびやかす「戦争」と、それを引き起こした大人達、ティファを連れ去ったコロニーの大人達に対する怒りだけでいい。そう判断した結果ではなかろうか。「戦争を知らない子供達」という歌があるが、この物語はそうした「戦争を知らない子供達」が、戦争を体験する物語だと言える。そこには「戦争の是非」ではなく、なぜ戦争がいけないのかを考える種がまかれている。「戦争の是非」を考える上での基本的な問題点がちりばめられているのだ。

 「機動戦士ガンダムSEED」および「SEED DESTINY」では、だれがなんと言おうと、出来上がった映像を見れば一目瞭然で、遺伝子操作を受けた優勢人類と普通の人間の戦争だ。監督がなんと言おうと、はっきりと戦争を描いている、そのテーマが「非戦」だとしても、戦争を描いていることで、「非戦」を描こうとしたことは事実だ。そしてその目論見はキャラクター主導の物語により、薄らいでいる。そもそも戦争の理由が「人種間戦争」だからだ。そんなヘビーなテーマを、日曜夕方の時間にできるはずがない。だから実のところ「人種間戦争」にすら触れてない。そこにあるのは戦争をしている人間同士の、行き場のない感情のぶつかり合いだけだ。だがそのキャラクター主導の物語は、多くの若者に受け入れられる。そこには戦争の理由も、戦争の是非もない。では監督自身が語った「非戦」はどこに含まれているのかを考えると、戦うことを嫌がった主人公キラ・ヤマトの結論でしかないのだが、その結論は、周囲の要請によりいとも簡単に放り投げられる。その結果、キラ・ヤマトは戦争でしかなにをか語れない迷惑な人間となる。ただこの物語ではっきり示されているのは、「戦争」とは状況が状況を引き起こし、その連鎖で戦争が始まるという事実だ。実はそれはドラマの実態でしかないのだが、それほど本作では戦争という人類への問題提起に薄いのだ。これは作品の是非ではなく、作品の質の問題であり、作品を非難しているわけではないのだが、残念ながら「戦争」という側面で見るとどうしてもそれが本作の弱点に見えてしまうのだ。

 「機動戦士ガンダム00」では、エネルギー問題で4つに分割された世界を背景に、地域扮すなどの戦争行為に、武力で介入し、無理矢理戦争行為を終了させる組織「ソレスタルビーイング」に所属する4機のガンダムと、それに乗る4人のガンダムマイスターたちの物語である。ここで示される戦争は、「武力で武力を納められるか」、あるいは「武力のみで戦争は終結させられるか」という、堂々とした問いかけだった。そしてその結果、統一される地球の国々により、邪魔者扱いされてしまうソレスタルビーイングの面々が描かれるが、その背景に潜む世界を動かそうとする悪意に気づき、その悪意を絶つために、命をかけるガンダムマイスターの姿で、物語は終了する。
 面白いのは「ソレスタルビーイング」の存在そのものだ。世界の争いごとの矛盾をすべて引き受ける存在が、ソレスタルビーイングだった。その矛盾の最たるものは、彼らには政治的手段をまったく有していなかったことだ。そう武力だけなのだ。その存在そのものが矛盾だ。そして世界に矛盾を突きつけながら、戦っていたことになる。その矛盾は一時的に否定されるのだが、その強力さ故に、最終的に世界に必要とされてしまう。まるで「自衛隊の存在意義」すら奪いかねないような存在感を示すのだ。物語は世界のこうした矛盾を踏まえながら、それでも矛盾に満ちた世界に、矛盾を突きつけて生きようとするソレスタルビーイングの姿で幕を閉じる。この矛盾に解決をつける方法は、鋭意制作中の劇場版でどうなるのかが、見所の1つである。

 さて、ざーっと見回したところ、富野ガンダムに見られた戦争や政治力学のような見せ方やドラマには、ほど遠いような作品群であったことは、おわかりいただけると思う。もちろん作品そのものは「戦争の是非の問いただし方」で決まるものではないので、作品の善し悪しを問うているわけではない。問題なのは、各作品の監督やスタッフが、富野ガンダムと差別化するために、どうした方法論をもってロボットアニメでの戦争を描こうとしたかということなのだ。そしてこれらの作品が異なるアプローチで戦争をどう描いたかの結果を比較したかったのだが、これほどまでに異なっていたのかと、いまさらながら各監督の手腕に驚かされるばかりである。そして戦争の不正義を述べ、戦争の裏で行われた悲しい出来事や、戦争で死んでいったキャラクター達が描かれたドラマは、21世紀を迎えて戦争行為そのものに踏み込もうとしたのだ。ロボットアニメはこれまでずっと戦争を描いてきたという富野監督の言葉を借りるまでもなく、現在でも戦争をモチーフとして映像作品が作られている理由は、日本が敗戦国だからではないのだろうか。正義という名を前に、暴力が正当化されることに疑問が持てる国ならではの作品群が、戦争を背景として作られた「ガンダム」という作品のありかたなのではないだろうか? だとしたら「戦争」という呪縛から逃れられない「ガンダム」という側面があるわけで、それが「ガンダム」というコンテンツの限界にも見える。

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