「機動戦士ガンダムZZ」におけるモビルスーツの取り扱い

 理由もなく、なんとな~くガンダムネタが続きます。
 さて「機動戦士ガンダムZZ」という作品を聞いて、どんな印象をもつだろうか? いわく「Zガンダム」の後番組。いわく妙にコメディなガンダム。いわくシャアやアムロが出てこないガンダムなどなど。それもどちらかというと、あまりいい印象ではないのではなかろうか?
 この夏にNHKーBSで放送された「ガンダム宇宙世紀大全」でも取り上げられたように、「ガンダムZZ」は宇宙世紀0088の物語。0087に始まった「機動戦士Zガンダム」の後日談に相当する。背景だけを簡単に説明すると、地球連邦軍内部でティターンズとエウーゴの2派に別れて戦った内乱と、それに乗じたアクシズの三つ巴の戦い、いわゆる「グリプス戦役」が「Zガンダム」の戦いである。諸悪の根源となったティターンズの頭目・パプティマス・シロッコがカミーユの手で倒されたことにより、グリプス戦役は終結する。このとき地球連邦政府にはすでに統治能力はなく、混乱した地球圏に堂々と乗り込んできたのが、ハマーン・カーンが率いるアクシズあらためネオ・ジオン軍だ。エウーゴの残党となったブライト率いるアーガマは、地球圏の治安維持を目的に、ネオ・ジオン軍と交戦状態に入る。ネオ・ジオン軍は地球にまで手を伸ばし、和平を名目に実質地球はハマーンに屈服する。ところがネオ・ジオン内部でも内乱が発生する。その反乱の頭目であるグレミー・トトは、ハマーンが準備していたミネバの変わりの傀儡だったはずが、ザビ家の血がそうさせたのか、反乱に踏み切ることになる。ZZガンダムを得たアーガマ隊は、ハマーン軍とともにグレミーたち反乱部隊を鎮圧する。その後ZZガンダムのパイロットで覚醒したニュータイプであるジュドーは、ハマーンと一騎打ちを演じ、これを倒すことで戦争は終結する。これを第一次ネオ・ジオン抗争と呼ぶ。まあ、ほとんどの人が釈迦に説法だろうけど、一応おさらいね。

 物語世界に没入すれば、この時代のモビルスーツ(以下、MS)はアナハイム・エレクトロニクスによるMS生産が主流だった0087の時代に、ネオ・ジオン製のMSが加わることで、様々なMSたちが跳梁跋扈する時代となった。特にネオ・ジオン製のMSの多くは、ニュータイプ用に特化されたり、形状を人型に特定しないもの、試作機が戦場に投入されたものまであり、そのバラエティさは0087の時代以上に花開いてみせる。
 逆に物語を離れた視点で見ると、戦争物語に始終し、ロボットものとしての見せ方を失った前作「Zガンダム」の反省点を踏まえ、よりロボットものらしく、よりプラモデルを売るために、数々のMSが生まれてきたといっていい。それはMSV(モビルスーツ・ヴァリエーション)というプラモデルでしか展開していない機体が画面に登場したり、後半のタイガーバームコロニーで、旧型の水陸両用MSが活躍するシーンでも顕著に表れている。だが「ガンダムZZ」に登場したMSたちは、まるでカンブリア爆発のような勢いをもって画面に登場し、消えていったのである。特にネオ・ジオン系列のMSには、デザインだけでも話題に事欠かないものが多い。

 ネオ・ジオン系列のMSの特徴は、内蔵武器だろう。手持ちのビームサーベルなんかも使用するが、ミサイルポッドやメガ粒子砲を内蔵しているタイプが多い。「ズサ」は物語初期にマシュマーが騎乗していたので、覚えている人も多いだろう。ずんぐりむっくりした機体ながら、内蔵したミサイルポッドに加え、オプションパーツにまでポッドをくっつける過剰さだ。この過剰なほどの武装は、手足にオプションをつけて戦闘をこなした「ザク」系列とはまったく異なる設計思想になる。単眼なのは同じだが、これだけでもネオ・ジオン系列のMSが、ジオン軍のものと異なることがわかる。この「ズサ」は、背部にブースターをつけることで、単独での大気圏突入能力を持つ。この能力も過剰だ。しかもこの変形パターンは、アーガマ隊にあった「メタス」の変形によく似ている。ということはグリプス戦役後に、アナハイムからネオ・ジオンに鞍替えした技術者がいた可能性だってある。

 「ガザ」シリーズは、アクシズ時代にとりあえず数をそろえるために製造されたMSと言われている。コンセプトは技術力を見せつける変形に、最低限の機能を搭載させることのようだ。しかも手足がついていながら、その利用はあくまで補助的であり、武器を操るためのものとは思えないほどの簡素なものだ。ズサの時同様、手足で武器を操るのではなく、内蔵武器をあたかも武装しているように見せかけているといってもいい。それはくしくも「足なんて飾りです」と言い切った、あのメカマンの思想が乗り移ったかのようだ。つまり内蔵武器は手足の役割を軽視するということでもある。
 
 ネオジオン初の合体変形MSとなったのが「バウ」だ。腰を接点に、上半身のバウアタッカーと下半身のバウナッターに分離変形し、飛行形態で2機で移動。合体変形も簡素でスムーズな機体である。確かに一見するととげとげしていたり、モノアイなのだが、上半身であるバウアタッカーの変形機構や胸回りのデザインは、見事なまでに「Zガンダム」のそれにそっくりだ。しかも頭部を引っ込める機構がないため、顔がむき出しのまま変形している。先の「ズサ」が「Z計画」と呼ばれるアナハイムの変形MS開発の過程で生まれた「メタス」の応用だとしたら、この技術者は「Z計画」の途中でネオジオンに参加した可能性が出てくるではないか。

 「ドライセン」や「ザクIII」は、かつてのジオンの主力MSである「ドム」と「ザク」の発展型であるのだが、これも内蔵武器に依存している。確かに近接格闘の際、至近距離での内蔵武器にはたまげること請け合いだろうが、それ以前にライフルやサーベルを器用に操るアナハイムのガンダムシリーズなどにふところに入られたら、その時点でアウトである。事実ラカン・ダカランはジュドーのZZガンダムを追い詰めておきながら、内蔵武器を使用できないまま負けているではないか。どうにもこの内蔵武器は、ジオン系技術者の敗戦の怨念としか思えなくなってきた。

 終盤に出てくる変形MSで「ジャムルフィン」というMSがある。これに搭乗する3人のネオジオン兵士は、あたかも往年の「黒い三連星」のごとく、3機一組で攻撃する。まあネタが割れてしまえば、ジュドーほどのニュータイプは、あっというまに撃退してしまいます。さてこのジャムルフィンだが、そのフォルムはほかのどのMSとも似ていない。そのフォルムは、言ってしまえばメガ粒子砲に手足と顔をつけただけ。ここでも手足の軽視が効いてます。ただジャムルフィンが変形したモビルアーマー形態ですが、どことなく「0083」に出てきたGP-01Fbのコアファイターに似ている気がする。特に足が変形した翼部は、前後をひっくり返すと、あのコアファイターによく似ている。アナハイム系技術者の換骨奪胎かと思わせる。いやこれはあくまでネタですがね。

 強化人間専用機として登場した「ゲーマルク」。あの陽気なお姉さん、キャラ・スーンが搭乗し、キュベレイMk-IIに撃墜されてしまう。このMSはこれまでの内蔵武器の集大成となっており、膝に仕掛けられたビームサーベルを持つ以外の機能は、手にない。手の形状も親指以外が簡略化されており、ぬいぐるみ感が増している。

 そしてプルツーが搭乗した悲運のMS「クインマンサ」。ニュータイプ専用機の最終形態として登場し、キュベレイの持つファンネルコンテナを有し、その巨大(39.2m)な体躯はサイコガンダムを想起させる機体となっている。だがようく頭部を見て欲しい。この頭部はZZガンダムに酷似しているではないか。ネオジオン技術者が、ニュータイプ専用機の代名詞であるガンダムを素材にとった可能性が見受けられる。それはガンダムに敵対するものとしての役割で登場したはずだ。プルツーが乗らなければ、ハマーンが搭乗していたかも知れない機体。そこにはハマーンのジュドーへの想いがあったのかもしれない。

 リゲルグやガズアル・ガズエルは、1年戦争末期の悲運の名機であったゲルググの改修機だ。大戦末期の名残がまだ残っている上、グリプス戦役時の「ガルバルディベータ」とは違うと言わんばかりの運用だ。裏を返せば、ゲルググの金型の修正でプラモデルを売ろうとする魂胆も見えてくる。

 しかしこうした数々のMSが、その後の第二次ネオジオン抗争に登場した機体には、ほとんど影響を与えていないことが、残念でならない。どうも第一次抗争のあとに、このネオジオン技術者はいずこへ出奔したのではないだろうか? シャアの乗るサザビーには、多少なりとも内臓武器への期待が残されているようだが、ほとんど見てくれだけで、アムロには毛ほども影響がなかった。そう考えると、ZZガンダム含め、この頃のMS開発の裏にある、技術者の暗い情念だけが、MSの形をなして登場したとしか思えないMSたちだ。ZZだってハイパービームサーベルなんか、ほかのMSが持っているところを見たことがないし、ハイメガキャノンも同様だ。MS開発競争のあだ花、それがこの時代のMSの本当の姿なのかもしれない。

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コメント

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ちょうどZガンダムの最終回を先日みてました。 

最後の余りの急展開ぶりに久しぶりに見て驚きました。 

あの頃のMSは結構好きです。サイコ2のファンネルとか奇抜なのがいいですね。
ビットでしたっけ?うろ覚えすいません。

No title

サイコガンダムマークIIの場合、リフレクターピットといいます。これは敵のビーム攻撃をピットのリフレクター板でうけて、それを増幅させてビームを反射する兵器です。トンデモですが、元ネタはやはり「宇宙戦艦ヤマト」の「反射衛星砲」でしょうね。無茶ですよね。

No title

どうも、こんばんはです。

個人的に今、ダブルゼータ熱が高まって来ているので、ここで語らせて下さい。

本作の評価が低い理由の一つに「ロボットアニメとして無難な内容になってしまった」事が挙げられており、
その一例として語られるのが「主人公ジュドー・アーシタがニュータイプ能力を有していながら行動原理が普通の兄ちゃんと変わらない」という物です。

ファーストが人間の愚かさを描き、積み重ねていった上で、そんな愚かさを越えて分かり合えるニュータイプという希望を描き、
ゼータがニュータイプという、人の心が分かる人間がそれ故にその能力に押しつぶされたり、その能力を悪用したり、その能力で自分の理想を押し付けようとしたりと、ある意味、ニュータイプ論を発展させた物語であったのに対して、
ダブルゼータは人の心が分かっても深入りせず、まず自分を優先し、そこから逸脱しない範囲で能力を持った自分に出来る事をする・・・という、ニュータイプという独特な設定を持ちながら普遍的な物語に終始しているように見えます。
でも、今の自分にはそんなダブルゼータの物語が心に一番“しっくり”と来ます。

というのも実は最近デリバリーのお店から来てくれる女の子が「お金さえ払えば何やっても良いと思ってるお客さんも居て辛い」という様な事を言いながら、
「でもお兄さん優しいから私の中に出しても良いよ」なんて事を言うのです。

自分が彼女らに優しくしているのは彼女らの機嫌を損ねると良いサービスを受けられ無い為で、
中で発射しないのは、あれは遊びでする物では無いし、何よりそれが普通だからです。
(まぁ、手でしてもらった方が時間内に発射出来る確率が高いからでもありますが)

自分を受け入れてくれた女の子にこういうスタンスを貫くのは冷たいかもしれませんが、それでも彼女らをデリバリーしておきながら「金を持っている自分の方が偉い」とか「所詮遊んで金貰ってる女の機嫌を取るなんて馬鹿らしい」なんて思う人にはなりたくないという思いがあります、
もっと言えば、そういった人達は「お金が欲しい」という女の子達の気持ちを分かっているからこそ、そこに付け込んだり、そういったお店で働いている女の子を見下しているからこそ、自己中心的な事をしてしまったりする訳で、そういう人達には怒りを覚えるのです。
・・・自分だって、そんな不純な遊びをしてる時点で目くそ鼻くそと笑われるかもしれませんがね(苦笑)


で、これを踏まえて考えた事は、
ジュドーは、自分を受け入れてくれたプルに対する態度が(リィナの事があるから当然とはいえ)“冷たい”と言われる事もありますが、シロッコのようにプルを都合よく利用するような事はしなかったし、
一定の距離があったからこそ、カミーユとフォウ、それにロザミアのような悲劇には至らなかった。
それに、ジャンク屋として決して人から褒められるような生活を送っていなかった分、エリート意識の強いハマーンのように人を見下す事もありません。
そして、ハマーンに対する怒りがジュドーという人間を成長させて行きます。
これはゼータが内包していたテーマに対するアンチテーゼでありつつ、普遍的と言われようとも建設的にテーマを発展させていった結果だと思うんですよね。


・・・と、まぁ痛々しくも今の自分とジュドーを重ね合わせて語ってはみましたが、一つ、自分がジュドーにまだまだ遠く及ばない物があるとするならば、
それは、ジュドー達が地球に降下して間もなく、砂漠の戦場で見せた姿で、
若者達を戦場へ送る(そして、戦って死ぬ事を美徳とする)社会の構造や規範といった物に真っ向から
“NO!”
と言える力強さです。

自分も、今の世の中の流れに疑問を持って以降、ネット界隈からも距離を置き始めましたが、
でも、ジュドーのように力強く自己を主張する強さは全然身に付いてませんからね。
これこそ人として普遍的な姿であって欲しいと思うのですが。

難しい話ですね

レバニラさま
 コメントいただきましてありがとうございます。また難しいところに突っ込まれましたね。

 デリバリーさんのお話はさておくとして(経験がないので判断が私のキャパを超えてます)、富野監督のインタビューの中で、「重戦機エルガイム」の時に、「ダバみたいに、あれだけの女の子と付き合った男なら、あれで終わるような男なわけないじゃないですか」(だいぶ要約してますが)ってのがあったんです。ジュドーの周りにはビーチャやモンドみたいなつかず離れずの間柄の男子もいましたが、ルー・ルカやエル、ムーンムーンの巫女さん二人、ラヴィアンローズの整備のお姉さん、プルやプルツーからハマーンまで、あれだけの女性のタイプが揃っていて、どいつもこいつも一筋縄じゃいかない女性ばかりでした。富野作品に登場する女性がいわゆるアイドル的なアイコンキャラではなく、肉を持った生々しさが存在する最大の理由は、主人公がこうした女性との関係性の中で性の芽生えを実感し、彼女たちの後押しを受けて成長することが念頭にあるわけで、富野監督が重要視しているポイントの一つだと思えます。

 たとえジュドーにその気がなくても、時として寄り添い、時としてつきはなし、場合によっては対立する位置に女性を配置してあることが、少年の成長を後押しする。それは現実の人間でも同様だと、富野のおじさんはいわんばかりです。ちなみに自身の回顧録のような文章を見ても、女性の話は多分に登場します。その時の気分とか感覚とかが作品に反映していることをおじさん自身が語っています。

 もう1点ZZで指摘しておきたいことは、本作ではかなり富野監督の存在感が希薄なことです。色が薄いというべきか。エルガイムの時も現場主導を志して、結果強権発動してあんなまとめになったことを反省したのか、ZZに関しては総監督という立場でケツを吹いただけで、現場主導で進めていったそうで、エルガイムから3年を経て富野さんの思うような感じになった、かといえば不満は相当あったみたいですけどね。でも富野さんが育てていた人材は見事にそのあとに花開いて巣立っていったことを考慮すれば、富野おじさんの試みは正鵠を射ていた。人材育成の場として正解だったわけです。そんな富野色薄めでも、この主張っぷり。それでもレバニラさんが言う通り「Z」に対するアンチテーゼとしては、十分機能したと思えます。

 シャアにしてもアムロにしても、あまつさえブライトにしても、カミーユという特殊でビビッドな感性の持ち主だった少年に対し、おっかなびっくりで付き合っていたのはご承知のとおり。だれもかれもがニュータイプの悲劇を体感してるくせに、カミーユに対し大人の都合で付き合う以外の方法論を排除してしまったために、カミーユは一人で精神を砕いてしまうしか自己保身する方法がなく、それはそのまわりにも伝播し、悲劇しか生まなかったこと、新訳Zではなかったことにして、戦記ものとしての側面で作り直すことでしか、カミーユを救えなかったことを考慮すれば、ジュドーの豊かな感性とあたりまえの優しさと、人と人を前提とするコミュニケーション能力が普通にありさえすれば、カミーユの悲劇は回避されたかもしれない。富野監督のような異能ではなく、大人があたりまえに享受できる否定形での思考を進めたアンチテーゼの結果が「ZZ」だと思えます。レバニラさんのおっしゃりようは、よくわかります。

 たとえ仕事をはさんでいるとはいえ、お相手の女性も人と人。レバニラさんのやさしさは人として正しいと、私は断固支持します。まあ〇出しはお勧めしませんけどw

No title

どうも、こんばんはです。
返信、痛み入ります。

デリバリーはですね、イメージクラブ的なお店と違ってお店の方では無く、こちらの方で色々な用意が出来るので、やりようによってはこちらの趣味や趣向をよりダイレクトに反映させやすいシステムになっていますね、
後は女の子がこちらの趣味に付き合ってくれるか否か、それは自分の誘い方次第になりますが。
でも、遊びと仕事を直結させて「お金あげてるんだから文句言わないでよ」と思って遊びに対する真剣さを無くしてしまうと、それは単なるワガママの押し付けにしかなりません、
そういう点で言うと富野おじさんは庵野秀明氏が発行した「逆襲のシャア友の会」の中で“男が種を保存する為には女に頼らなければいけない以上、どんなに強がってみせても女はそれに付き合ってくれてるだけで主導権は変わらない”という見解を示した上で、
(以下、原文ママ)「SMプレイの時にどうも、その気配を感じるよね。そうでなかったら、女はあんなにさ、「あっ! あっ! あっ!」(ジェスチュア付き)なんてやってみせないからね。」なんて事を言っておりましたw

ただ、こんなアバンギャルドな事を言う富野おじさんも、実質は優しい人なんだと思います、
だってガンダムの続編を要望された時に、テーマを「人は分かり合える」の発展形にせず、あえてアンチテーゼとして出発したのは、
「分かり合えた所がゴールでは無い」それに「分かり合える事とお互いを尊重し合える事は違う」という、ある意味当たり前な事を言いたかったからなのかもしれませんし(それはイデオンやダンバインで既に語られたテーマではあるのですが)
その次回作で更にそれを否定してみせたのは、視聴者が一つのテーマに凝り固まって間違った考え方をしないように「答えは一つじゃ無い」という富野おじさんの真剣な優しさなんだと思います。
(その真剣さ故に、バイク戦艦なんてスポンサーから押し付けられた馬鹿馬鹿しい要素に“地球クリーン作戦”なんて物語の中での理由付けをしてしまい、かえって物語を歪ませてしまう事もあるのでしょうが)

ただ、ダブルゼータの作劇に関して人任せにしていたというのは、富野おじさんもたった一年で前作のテーマを打ち消す事が出来る程に頭の切り替えが早くなかったからなのかもしれませんが、
個人的な見立てでは後の作品でしっかりとゼータにおける悲劇を富野おじさん自身の手で乗り越えて行っている気がします。
例えばニュータイプというある意味“選ばれし者”であるが故に、そういう立場で他人を見下すシロッコやハマーンと対立して潰れてしまったカミーユの悲劇を、
アンチボディという“選ばれし者”である事を活かして人に近づく優しさを教えてくれる宇都宮比瑪や、逆に人から離れる事も優しさであると教えてくれたネリー・キムとの出会いで救われた伊佐未勇の物語として。
崇高な理想を授けられ、それに殉じようとするあまり、他人を“俗人”として切り捨てて孤独になってしまったハマーンの悲劇を、
理想を掲げつつも地球に下野して俗世間と接する事で理想と現実、そして黒歴史と切り捨てられたテクノロジーとも折り合う道を見出す事の出来たディアナ・ソレルの物語として。
生まれた時からあらゆる物を与えられて何不自由無く育ったつもりが、生まれた時に与えられた物に雁字搦めになってしまっていたグレミー・トトの悲劇を、
生まれた時からの用意されたレイハントン家の証明でもあるGセルフを躊躇い無く乗り捨てる事で戦いを終わらせたベルリ・ゼナムの物語として(というのは強引な見立てかもしれないけど、何しろグレミーってキャラは個人的に好きな物でして)

そういった悲劇を乗り越える為に送り出されたキャラクターの一番手が本作の主人公であるジュドー・アーシタなのだとしたら、
同時に彼は当時の若手スタッフさん達が真剣であるが故に苦しむ富野おじさんを救う為に送り出したキャラクターなのかもしれないし(長谷川裕一先生がイデオンの悲劇を乗り越える為に選んだ人物もジュドーでしたし)
その後の富野作品に影響を与えた可能性も考えると、本作の評価という物もグッと上がるように思えます。
まぁ、自分の場合は俗な遊びを覚えたお陰でダブルゼータの価値に目覚めたクチなんですがw

人と出会う

レバニラさま

 返信いたみ入ります。富野作品のフォロー範囲が幅広いので、助かります。
 「Vガンダム」で一度ぶっ壊れた富野おじさんですが、「ブレンパワード」での復帰があざやかだったのは、「Vガン」で分かり合えないから戦争するんだよねっていう、だいぶんひどい回答をぶんまわした後で、わかりあおうとする努力を忘れちゃいけないよ!に転じているわけで、このあたりの転回はなるべくしてなってる感じが、できあがりの作品からにじみ出ていて、まさにおじさんの気分がフィルムに出ているのがよかったんです。Vガンが見ていてつらいのは、おじさんつらいのがフィルムの気分に、いきづまってる感じが出ちゃってるからで、今でも見ていてしんどいですわ。

 おじさんのスタジオワークが功を奏して、ZZ以降自身に知識をため込むのではなく、判断のつかないことは識者を呼ぶ、話を聞くことを仕事上で理解したおじさんが、特に女性の感覚に意を砕いたのがブレンパワードだった話は、以前「ブレンパワード」を当ブログで扱った際にも着目した件です。面白いのは古い世代の女性キャラは過去の富野作品的であり、若い世代の女性は富野新世代になっていて、対立軸が明確で、しかも新世代を最大限肯定しながら、それを生む土壌としての古い世代を擁護もしている。新旧を善悪で切って捨てるのではなく、ありだけどダメだよねってあたりのすわり心地の良さが上手いと思えます。そこで当ブログのスタンスとしては、「ブレン」を富野スタンダードの変換点だとしているのですが、その萌芽は「ZZ」に見えるって話は、あらためて「ZZ」、やらないといかんですなあ。

 個人的な話を申しますと、「ZZ」でジュドーを見た時に、私はカミーユやアムロとは違う別種のコンプレックスを感じていました。それは彼のバイタリティです。あの目の前に困難があっても乗り越えていく意思をみせる、あの勝ち気で強気な態度は、いつだって自身がない私にとっては、ものすごくコンプレックスを刺激するキャラクターでした。でもどちらかといえばガサツな印象のあるジュドーが、ニュータイプとしてより優れた人材であることに、納得が行かなかったんですよw でも私が当時16歳でコンプレックスを刺激されたジュドーが、自分の先にあるニュータイプの現実であると、当時は思えませんでしたから、やっぱり「ZZ」をどこかで否定してしまった。それは「ザブングル」でジロンをやはりヒーローとして見ていられなかった自分のコンプレックスと対峙する瞬間でもあった気がします。でもそれなりの経験をへて、50歳も目の前になろうかという年齢で彼らを見れば、ジュドーやジロンのバイタリティにも負けてない自分をやっと発見できて、ほんの少しずつ彼らにコンプレックスを感じなくなった気がします。そして何より彼らが彼らなりの若い年齢の中で、上手くいかないことの多い人付き合いの中で必死に何かを探り、何かを見つけ、理解者と味方を増やしていった作品中の事実は、自分の心の支えの一つでもあります。

 ですからねレバニラさん、今回レバニラさんがコメントいただいた件は、いろいろな意味で、人生の様々なレベルで、人の生きていく中での様々な場面で、ものすごくわかる話っていうか、重要な示唆がある話だと思うんです。ひきこもりでもネットから離れがたいように、人は人の中でしか生きられなくて、人として育たなくて、オオカミに育てられた少女の話じゃないけれど、人以外の群れの中では人として成立できないんだって思うから、人の中で生きていく以上、他人に対する優しさとか礼儀とか仁義とかって義理人情って話は、どうしても欠かせないって思えます。それを欠いたらいかんと思うんですよ。そりゃ私だってTwitterでそこそこの悪口つぶやきますが、そうせな自分の中にオリみたいにたまっていく悪意を振りきれない時があります。そして何より人間は弱いから、何かに依存してしまう。その弱さも悪意もすべて許容するには、たぶん人間の人生は短すぎるのかもしれません。

 あ、なげーわwww
 途中愚痴っぽい話も混ざってましたが、気にしないでくださいね。
 なんかアニメ見ながら人生相談みたいな恥ずかしい番組、見たいな。
 どっかでやってませんかねw

まにまにさんに感謝を伝えます

こちらこそ、長いお話を聞いて下さってありがとうございました。

自分も、ネットの世界から離れて新たに依存した先がデリバリーのお店だったというだけで別段、特別な事はしていないのですが、
ただ、そこで出会った女の子のお陰でダブルゼータの事を考えなおす切っ掛けを掴み、その中での自分を省みる内に、ジュドー・アーシタというキャラクターを再評価する事が出来、
そして今、こうしてまにまにさんとのやり取りの中で富野作品全体を俯瞰した時のダブルゼータのポジションを再考する・・・といった段階を踏んで一つのアニメをより楽しむ事が出来たのはとても有意義でした。

アニメ見ながら人生相談ですかw
「自分が平凡だとお悩みの貴方に、このガンダムZZをオススメします、普通の事を力強く言える、出来る人は強いと感じる事が出来ますよ」
なんて、お悩みに対する処方せん的にアニメをオススメする本とか昔、見た事あるような気がします。
プロフィール

波のまにまに☆

Author:波のまにまに☆
東京都出身
43歳になりました 
妻一人

戦隊シリーズをこよなく
愛する、男オタ。
特撮は主食、
アニメは副菜。
後期必殺を好み、
スタートレックは
ピカード艦長が大好物。
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